水連・メディアとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:49 UTC 版)
1991年の世界選手権後、自分の人生に知らない人たちが踏み込んで来るような生活に一変したようで、メディアに違和感を感じたという。1992年、バルセロナ五輪で自己ベストを更新し決勝に進み、目標を達成して千葉は充実していた。インタビューではマスコミにメダルが取れなかったと言われ、自分との温度差に葛藤が生まれたという。同じ大会で金メダルを獲得した14歳の岩崎恭子へメディアの関心が移り、千葉は「残念でしたね」と日々言われるうちに努力や夢が否定されるように感じた。 アメリカへの留学は関係者からは賛同されなかったが、日本の根性論、コーチとの上下関係とは異なるスポーツの姿を知る。自立した選手として扱われ、厳しい練習は自分のためだと心から楽しもうと思えるようになる。アトランタ五輪では女子チームのキャプテンだった千葉は、若い選手にプレッシャーも楽しんでと声を掛けた。オリンピックについて「楽しかった」「日本人はメダルばかり評価する」との大会後の千葉の発言はバッシングを受け、税金泥棒などの批判を浴びた。「楽しむつもりで出場した」などの発言は日本水泳界の重鎮らの怒りを買った。 CASへの訴えを決めたのは、シドニー五輪代表落選後にアメリカに戻って友人やホームステイ先の両親から、今後の選手も同じになってもいいのかと言われた時だという。CASに選考基準の曖昧さを訴えたのは日本人として初めてで、日本のスポーツ界に大きな衝撃を与えた。各競技団体は選考基準の明確化へ努力することが義務となった。2003年、日本スポーツ仲裁機構が設立され、CASに訴えなくても国内で選考に関連する紛争等を扱えるようになった。
※この「水連・メディアとの関係」の解説は、「千葉すず」の解説の一部です。
「水連・メディアとの関係」を含む「千葉すず」の記事については、「千葉すず」の概要を参照ください。
- 水連・メディアとの関係のページへのリンク