死後の脚色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 23:51 UTC 版)
宗春は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)が残っておらず、具体的にどのような罪状で捕らえられたのかは不明である。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、上記の説のように、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては『河内山実伝』があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談『天保六花撰』としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩松平家への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には二代目河竹新七(河竹黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている。また、松林伯圓の講談は浪曲に影響を与え、木村重友、初代木村友衛、木村若衛の木村一派のお家芸となった(現在は途絶えている)。
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