死亡に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:33 UTC 版)
以上が公式記録での経歴であるが、一説には文化6年(1809年)1月4日に疱瘡にかかり、そのまま14歳で早世したとされる。当然、嗣子がいるはずもなく、加えて17歳未満であったので規定上、幕府より末期養子による相続認可が下りないために仙台藩は無嗣断絶の危機に立たされた。しかし、奉行の中村景貞(中村家当主)の機知により、周宗の死を3年間隠蔽し、伊達家は周宗家督相続に続く改易の危機を切り抜けたとされる。 幕府は周宗の死を知っていたが、伊達家は東北でも最大の大藩なのであえて放置していたとも言われている。また、この頃は将軍・家斉の下で放漫的な政治が行なわれていたため、伊達家は幕閣に賄賂を贈って凌いでいたともいわれている。後見役の堀田正敦が若年寄を務めていたことも理由の一つとの説もある。 ただし、以上のことは公式記録にないためか、『仙台市史』では全く言及されていない。
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