歴史的な範囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 01:31 UTC 版)
江戸時代に駿府城に勤め、のちに『駿国雑志』(1843年成立)を編纂した阿部正信(生没年不詳)は、駿河国(静岡県)の御殿場から竹之下(小山町・JR東海御殿場線の足柄駅付近)にかけての一帯を「藍沢荘」に比定した。そのうえで東田中村(御殿場市東田中)と新橋(御殿場市新橋。御殿場線御殿場駅付近)の間に「藍沢野」があったとした。 ところが、鎌倉時代の『吾妻鏡』正治2年(1200年)の条や、南北朝時代初期(1337年)の軍忠状では、藍沢原を「伊豆国」としている。このため、歴史的には「藍沢原」はかなり広い範囲を指していたと考えられ、東は足柄峠下の竹之下(小山町)、西は黄瀬川・黄瀬川宿(沼津市大岡)、南は伊豆国(現在の三島市)の一部を含んでいたと推定される。
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