歴史の舞台として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/03 01:56 UTC 版)
『源平盛衰記』巻十七に「千代に替はらぬ緑は、雀の松原、みかげの松、雲居にさらす布引は、我が朝第二の滝とかや。」とあり、また『長門本、平家物語』巻九に「福原といふ所は、北には神明跡をたれ、いく田、広田、西宮、千代にかはらぬみどりは雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引の滝、南をのぞめば、うみまん〳〵たるあはぢ島山、眼の前にさへぎる船」とあり古くから名勝として名高かった。 正平6年(1351年)には足利尊氏・足利直義兄弟が互いに戦った場所でもある。 薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何さま大勢を恃みて、御方しそむしぬと思ければ、弥我事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れしと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて両方に赤き手を付たる旗をぞ指したりける。一族手勢二百余騎、雀之松原の木蔭の控えて、大手之軍今や始ると待つ処に、兼ねての相図なれば、河津左衛門氏明、高橋中務英光、大旗一揆之勢六千余騎、畠山か陣へ推寄て時を作る。畠山か兵閑り返りて、態と時の声をも合わせす。此藪陰彼木影に立隠れて差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より倒に射されければ、後陣ひき足に成て進み得す — 西源院本、太平記第二九巻、小清水合戦事
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