武田氏・後北条氏への離反
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「小幡憲重」の記事における「武田氏・後北条氏への離反」の解説
小幡氏の主君である山内上杉氏は相模国の後北条氏との抗争で衰退すると長野氏との関係が悪化し、さらに一族の内紛が勃発する。このような状況下で憲重は天文17年(1548年)10月に山内上杉氏から離反し、同年12月には上杉憲政の拠点・平井城を攻撃している。この頃から武田氏・後北条氏に通じていたようであり、同18年もしくは19年には同族である小幡三河守の武田氏への従属を仲介している。同19年(1550年)には後北条氏に通じ、それに伴い北条軍が平井城を攻撃した。同21年(1552年)3月の北条軍の侵攻により上杉憲政が本拠平井城・上野から没落し越後長尾氏を頼ると、憲重は後北条氏・武田氏に両属する立場となった。翌22年(1553年)9月には「小幡父子」が信濃塩田城に在陣する武田晴信(信玄)に出仕しており、これが憲重と嫡子・信実のことを指すと考えられている(『高白斎記』)。
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