橋牟礼川遺跡の学史的成果と成川式土器
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指宿市十二町所在の橋牟礼川遺跡は、1916年(大正5年)に旧制志布志中学校の生徒が土器片を拾ったことがきっかけで存在が確認され、1918~19年(大正7~8年)に、濱田耕作が中心となって発掘調査を行った。 その際、開聞岳噴出物の堆積層を挟んで、下層に縄文土器が含まれ、上層に弥生土器(とされた土器)が含まれていたことで、当時論争となっていた「縄文土器と弥生土器の違いは年代の差なのか、使用する人種や民族の差なのか」という問題が、層位学的事実により「年代差」であることが決着した。 現在では常識となっている「縄文時代から弥生時代へ」という時代の推移は、この遺跡の調査によって明らかとなったのであり、考古学史に残る成果であった。 しかし、濱田らが発掘したこの「弥生土器」は、先に挙げた研究史の成果から見て、今日では古墳時代後期の「成川式土器」に位置付けられるものであった。すなわち、「縄文土器(時代)から弥生土器(時代)へ推移した」という歴史的事実に誤りはなく、橋牟礼川遺跡の調査は間違いなくそれを証明したが、その根拠となった橋牟礼川遺跡上層の土器は、型式学的にも年代的にも弥生土器ではなかったのである。
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