横浜駅の構造問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:02 UTC 版)
「平沼駅 (国鉄)」の記事における「横浜駅の構造問題」の解説
1872年(明治5年)、新橋駅 - 横浜駅間で日本初の鉄道が開業するが、この時は東西両京を結ぶ鉄道に関して具体的な計画が存在せず、横浜を通るかどうかすら検討していない状況であったことから、横浜の駅は海運との接続を考慮し、港に近い現在の桜木町駅の位置に頭端式で設置された。 その後、一時は中山道ルートと決まった両京を結ぶ鉄道であるが、予算や工事の難易度を理由とし、最終的に東海道ルートへ変更される。1887年(明治20年)、当駅から国府津駅まで路線が延伸されることになったが、前述のような構造で駅が設置されたため、線路配置はスイッチバック構造にならざるを得なかった。 そして1889年(明治22年)に東海道線の全通を迎えるが、スイッチバック構造であるがゆえに横浜駅(初代)は貨物が滞留する場所となってしまった。そして1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると、陸軍の要請で神奈川駅 - 程ヶ谷駅間に短絡線が設置され、軍用貨物列車はこちらを経由するようになった。
※この「横浜駅の構造問題」の解説は、「平沼駅 (国鉄)」の解説の一部です。
「横浜駅の構造問題」を含む「平沼駅 (国鉄)」の記事については、「平沼駅 (国鉄)」の概要を参照ください。
- 横浜駅の構造問題のページへのリンク