槇垣と地割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:21 UTC 版)
国府集落は、天正年間(1573年 - 1593年)に浄土真宗の布教のために訪れた僧の道念が整備したと伝えられる。天正以前の国府は、津波や暴風雨を避けて高台に住宅が点在していたが、道念は集落を1か所に集め、南北方向に幅2間半(≒4.5 m)の主要道を敷き、これに平行する2本の世古(路地)と直交する16本の世古を整えた。また、集落の中央に寺院を、北端に神社(国府神社)を置いた。国府神社の鳥居前に立つと、南に向かって主要道が一直線に伸びている。 各戸は背の高い槇垣に四方を囲まれている。槇垣は火災・風水害・塩害・飛砂を防ぐ役割を持つ。実際に安政東海地震(嘉永7年=1854年)で津波に襲われたが、槇垣のおかげで他村より被害は軽微で、死者が出なかったと伝えられ、槇垣のおかげで隣家への延焼を防ぐことができたという証言がある。ブロック塀とは異なり、槇垣は地震で崩壊することがないので、避難経路が確保されるという利点もある。槇垣はきれいに刈り込んで維持されてきたが、住民の高齢化で維持が困難なため、背を低くしたり、撤去したりする家も出現している。 槇垣の内側の屋敷地には、主屋・隠居屋・納屋・蔵などが互いに独立して建てられ、この方式を「国府構え」と称する。国府構えの建物は基本的に方形の平屋建てで重心が低いので耐震性が高く、それぞれの建物が離れているため仮に1棟が倒れても隣の建物に影響を与えにくい。
※この「槇垣と地割」の解説は、「阿児町国府」の解説の一部です。
「槇垣と地割」を含む「阿児町国府」の記事については、「阿児町国府」の概要を参照ください。
- 槇垣と地割のページへのリンク