桂枝雀
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桂 枝雀(かつら しじゃく)は上方落語の名跡。二代目の死後は空き名跡となっている。

- 初代桂枝雀 - 本項を参照
- 代外桂枝雀 - 昭和10年代の寄席ビラに枝雀の名が確認できる。色物だったとされているが詳細は不明。
- 2代目桂枝雀 - 現在「桂枝雀」「枝雀」と言えば一般的に2代目のことを指す。
初代
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本名 | 入江 清吉 |
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生年月日 | 1862年 |
没年月日 | 1928年1月22日 |
出身地 | ![]() |
師匠 | 2代目桂文枝(桂文左衛門) |
弟子 | 桂雀四郎 3代目桂萬光 2代目桂談枝 |
名跡 | 初代桂枝雀 |
活動期間 | 1884年 - 1926年 |
活動内容 | 上方落語 音曲 寄席踊り |
所属 | 桂派 寿々女会 大正派 新桂派 京桂派 反対派 吉本 |
初代 桂 枝雀(かつら しじゃく、1862年 - 1928年11月22日)は、本名∶入江 清吉(いりえ せいきち)。
経歴
大阪の足袋商「古滿屋」の子として生まれ、11歳で質屋に奉公に出たり家業を継いだりしていたが、芸事に興味を持ち地歌や舞踊の稽古に通う。後、友人の勧めで、上町にあった素人落語の「緑連」に加わり、喜代丸を名乗る。1884年11月、2代目桂文枝に入門し、枝雀を名乗り、生涯変えなかった。1898年に真打となる。
桂派が凋落の一途をたどる中、2代目桂南光、3代目桂文三らと共に同派を良く支える。仁左衛門の死後は、1912年に4代目笑福亭松鶴らと共に自身の名にちなんで寿々女会を組織するも、加入した4代目松鶴に人気を持っていかれ本人は出演ができず退派し、間もなく当時の元号にちなみ大正派(別名三友藤原派)を立ち上げ、平野町第一此花館を本拠とするが、1916年に解散。その後すぐ新桂派を結成するが、2年と持たなかった。その後、京桂派、反対派、吉本興業部などに加入。1926年頃に引退。
引退後は布施(現・東大阪市)に住み、平穏な余生を過ごした。同業者との連絡は一切絶っていたため、死期も分からずじまいだったという。66歳没。
弟子
独立
芸風
SPレコードは明治末から大正にかけて多く残されている。何故かジャケットレーベルは「桂雀枝」「桂文雀」「桂芝雀」等の名で吹き込まれている。小噺が多い。
音曲も独特なもので、一席終えた後、「フェー」といった奇声を発してから、笑福亭吉右衛門仕込みの大津絵節などを聴かせたという。
痩躯にあばた面、片目が不自由といった風体だったが、笑いの多い愛嬌ある高座で、桂派でも一番の人気者だった。三友派の2代目桂米喬とともに、初代桂春団治出現以前の爆笑王として名を馳せた。
演目
参考文献
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固有名詞の分類
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