松浦信正の長崎支配
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寛延元年(1748年)6月20日、当時勘定奉行だった松浦は長崎奉行兼任となった。そして長崎に派遣された際に、長崎支配の改革のため地下人を抜擢し、岩原にあった長崎目付屋敷に滞在させた勘定所役人とともに改革案を企画し、それを実行していった。 長崎では、番方は長崎奉行の直接支配、その他の町方・蘭方・唐方・長崎会所の支配は基本的に町年寄が行ない、それを長崎奉行が監視・統治するという形式だった。それに対して松浦は、町年寄を長崎会所の責任者として会所で諸事を処理することを命じ、従来町年寄の裁量に任されていた事柄は、長崎会所役人に処理させるようにした。 商売方会所(用行組)では、長崎会所元方会所目付の村山庄左衛門が元締めに、同吟味役見習の森弥次郎が長崎会所を実務上取り仕切った。出島乙名・島谷又次郎はオランダ貿易と諸町乙名や長崎地下人に対する監視・情報提供を任され、入札商人・伯井長兵衛は唐船貿易・商品の値組などを行なった。そして岩原屋敷に滞在した勘定所役人が、彼ら用行組の者たちを支配し、直接指示を与えていた。 寛延2年(1749年)に、唐船の貿易許可数を年間15隻にし、各船同士で貿易額を融通することを禁止し(「華蛮交易明細記」)、近年は輸入品の質が落ちているのでもっと商売になるような品を運んでくるよう命じる。長崎町人へも唐人と取引しやすい品目をもたらすよう要請し、箇所銀・竃銀(町人への配分金)を減額した。 松浦は宝暦2年(1752年)2月15日に長崎奉行を退任し、勘定奉行専任となる。しかし、その後も長崎の諸事について新任の長崎奉行とともに協議し、従来のように処理していくようにと命じられた。 長崎支配を改革した松浦が引き続き勘定奉行のまま長崎支配に携わることになったのは、これまで長崎奉行が一元的に任されていた体制から、行政一般は長崎奉行に、長崎会所による長崎貿易の管理は勘定所による直接的な支配に変えるという「二重支配」にしていくものであったと、鈴木康子は考えている。しかし、用行組の者たちは、勘定所およびその上にいる松浦信正に癒着し、従来であれば長崎奉行や長崎町年寄を通して行われた事柄を、自分たちだけで進めるようになり、そのために用行組と地下人たちとの間に軋轢が生じていった。
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