松浦信正の長崎支配とは? わかりやすく解説

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松浦信正の長崎支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 08:18 UTC 版)

用行組事件」の記事における「松浦信正の長崎支配」の解説

寛延元年1748年6月20日当時勘定奉行だった松浦長崎奉行兼任となった。そして長崎派遣された際に、長崎支配改革のため地下人抜擢し岩原にあった長崎目付屋敷滞在させた勘定所役人とともに改革案を企画し、それを実行していった。 長崎では、番方長崎奉行直接支配その他の町方・蘭方・唐方・長崎会所支配基本的に町年寄が行ない、それを長崎奉行監視統治するという形式だった。それに対して松浦は、町年寄長崎会所責任者として会所諸事処理することを命じ従来町年寄裁量任されていた事柄は、長崎会所役人処理させるようにした。 商売方会所(用行組)では、長崎会所元方会所目付村山左衛門元締めに、同吟味役見習森弥次郎長崎会所実務取り仕切った出島乙名島谷又次郎オランダ貿易諸町乙名長崎地下人対す監視情報提供任され入札商人・伯井長兵衛唐船貿易・商品の値組などを行なった。そして岩原屋敷滞在した勘定所役人が、彼ら用行組の者たちを支配し直接指示与えていた。 寛延2年1749年)に、唐船貿易許可数を年間15隻にし、各船同士貿易額融通することを禁止し(「交易明細記」)、近年輸入品の質が落ちているのでもっと商売になるような品を運んでくるよう命じる。長崎町人へも唐人取引しやすい品目もたらすよう要請し箇所銀・竃銀町人への配分金)を減額した。 松浦宝暦2年1752年2月15日長崎奉行退任し勘定奉行専任となる。しかし、その後長崎諸事について新任長崎奉行とともに協議し従来のように処理していくようにと命じられた。 長崎支配改革した松浦引き続き勘定奉行のまま長崎支配携わることになったのは、これまで長崎奉行一元的任されていた体制から、行政一般長崎奉行に、長崎会所による長崎貿易管理勘定所による直接的な支配変えるという「二重支配」にしていくものであったと、鈴木康子考えている。しかし、用行組の者たちは、勘定所およびその上にいる松浦信正癒着し従来であれば長崎奉行長崎町年寄通して行われた事柄を、自分たちだけで進めるようになり、そのために用行組地下人たちとの間に軋轢生じていった。

※この「松浦信正の長崎支配」の解説は、「用行組事件」の解説の一部です。
「松浦信正の長崎支配」を含む「用行組事件」の記事については、「用行組事件」の概要を参照ください。

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