松浦一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 16:25 UTC 版)
多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、九州経営のため、一色範氏を九州探題として留置した。一方南朝方も、九州における菊池氏を中心とする南朝勢力結集のため、興国3年(1342年)、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍宮として薩摩国に上陸した。さらに観応の擾乱による足利氏内部の対立抗争により、尊氏の庶子足利直冬が下向したため、九州は三つの勢力に分かれて争われることになった。それぞれの勢力は、在地勢力を味方につけることによって、優位を占めようとし、諸勢力の軍事催促を受けた松浦党は、それぞれが独立する家長の利害得失の状況判断によって、行動の態度が決定された。 松浦党をひとつの固定した勢力として味方につけようとする試みが各勢力によってなされたが、特に熱心だったのは、応安4年(1371年)、九州探題に任命されて下向してきた今川了俊であった。彼は松浦党に対して地縁的関係による一揆契約を結ばせる政策を推進した。松浦党の一揆契諾状は応安6年(1373年)から明徳3年(1392年)までの約20年間に4回結ばれている。
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