松之大廊下の刃傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
ウィキソースに梶川日記の原文があります。 元禄14年3月14日(1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、吉良上野介が本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから声をかけ、あるいは「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で肩先を斬りつけ、更に斬りつけたところ、上野介が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上を傷つけた。小さ刀は上野介の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた。そして上野介が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた。 すぐさま、内匠頭はその場に居合わせた梶川与惣兵衛に刀の鍔を押し留められ、異変に気付いて駆けつけた周囲に取り押さえられ、柳之間の方へと運ばれた。一方の上野介は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に御医師之間に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。上野介の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている。 その後、目付が双方から事情を聴取し、老中に報告、側用人柳沢吉保を経て将軍徳川綱吉にまで伝えられた。即日内匠頭には切腹の裁定が下り、一方の上野介は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。 「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」
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