李天禄
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李天禄 | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 李天祿 |
北部発音: | リ・ティエン・ロック |
日本語読み: | り てんろく |
李 天禄(り てんろく、リ・ティエン・ロック、ベトナム語:Lý Thiên Lộc / 李天祿、天順5年5月1日(1132年6月15日) - 没年不詳)は、李朝大越の皇族。
生涯
天順5年5月1日(1132年6月15日)、第5代皇帝の神宗[1]の長男として生まれる[2]。母は神宗の寵愛を受けたとされる[2]が不詳。神宗がその伯父にあたる第4代皇帝仁宗[3]の後を受けて即位[4]してから5年目の出生であった。同閏月には妹にあたる神宗の長女(名不詳)が誕生しているが出生後すぐに死去した[2]。
神宗の後継者として立太子された[2][5][6]。天彰宝嗣6年9月(1138年10月)に神宗が病で臥せるようになると、神宗の妃嬪である感聖夫人黎氏・明実夫人黎氏・日奉夫人の三人は金銭に貪欲だった参知政事の徐文通に賄賂を渡して[5][6]、病状が重篤になった神宗の元に向かった[2]。神宗は徐文通に対して李天禄に跡を継がせる[6][7]旨の詔文を起草するように命じたが、三夫人に靡いていた徐文通はなかなか書こうとしなかった[2]。到着した三夫人は神宗の前でにわかに嗚咽し始め、李天禄の生母の身分が高くないこと、李天禄が神宗の跡を継げばその母は傲るようになって嫉妬の情を抱き、自分たち母子が害されるようになるであろうことを涙ながらに訴えた[2][5]。三夫人の訴えを聞き入れた神宗は感聖夫人の所生である次男の李天祚[5]が幼少ながら嫡子であることから、李天祚を新たに皇太子とし[8]、それまで太子であった李天禄は明道王(ベトナム語:Minh Đạo vương / 明道王)[9]に改めて封じられた[2]。
同年9月26日(10月31日)に神宗が都城内部の永光殿において23歳で崩御した[8][10]後、10月1日(11月5日)に李天祚が3歳で即位(英宗)[8]して紹明と改元、生母の感聖夫人が摂政皇太后[4]となった[2][8]。
『大越史記全書』の編者である呉士連は神宗が徐文通や三夫人の言われるままに李天禄を廃太子し、幼少の李天祚を皇太子に新たに据えたことについて、伊尹や周公のような社稷の臣が不在でその意見を聞き入れることもなく、宮廷の内外で邪臣が跋扈したことを神宗の治世における末年の痛恨事として惜しんでいる[2]。
その後の李天禄は『大越史記全書』には名が見られず、没年も不詳である。呉時仕が編纂した『越史摽案』には、范成大が著した『桂海虞衡志』からの引用として、李天祚(英宗)には障害を持った兄弟がおり、その支持者が李天祚側の非を訴えるために宋に使者を送ったが、既に李天祚を交趾郡王に封じていた宋はこれを支持せず、その使者を捕縛したという記述を掲載している[6]。呉時仕はこの「兄弟」を李天禄のことであるとしている[6]。ただし、『文献通考』と李心伝が著した『建炎以来繋年要録』には同じく『桂海虞衡志』からの引用として、李天祚のほうが皇位の簒奪者であるとする記述も見える[1]。また、『文献通考』にはこれも『桂海虞衡志』からの引用として、知諒州であった李天祚の兄が李天祚から皇位を奪おうと企てたが、事が発覚して雪河州に流され、その後に剃髪して浮屠(僧侶)となったことを記している[11]。
脚注
出典
- ^ a b 桃木 1987, p. 412
- ^ a b c d e f g h i j 『大越史記全書』本紀巻之三 李紀 神宗皇帝
- ^ 桃木 1987, p. 405
- ^ a b 桃木 2010, p. 7
- ^ a b c d 桃木 1998, p. 441
- ^ a b c d e Đình Ba (2022年5月22日). “Vì lời người đàn bà nào, ngôi vua nhà Lý đổi chủ?”. Báo Dân Việt
- ^ 桃木 1998, p. 436
- ^ a b c d 『Việt Nam sử lược』Quyển I Phần III Chương V NHÀ LÝ (tiếp theo)
- ^ 桃木 1998, p. 445
- ^ 桃木 2010, p. 5
- ^ 『文献通考』巻三百三十 四裔考七 交趾
参考資料
- 桃木至朗「ヴェトナム李朝の軍事行動と地方支配」『東南アジア研究』第24巻第4号、京都大学東南アジア研究センター、1987年3月31日、 403-417頁、 doi:10.20495/tak.24.4_403。
- 桃木至朗「一家の事業としての李朝:ベトナム王朝国家形成史への一死角」『東洋学報』第79巻第4号、東洋文庫、1998年3月、 424-448頁、 ISSN 0386-9067。
- 桃木至朗「大越(ベトナム)李朝の昇竜都城に関する文献史料の見直し」『待兼山論叢 史学篇』第44号、大阪大学大学院文学研究科、2010年12月24日、 1-29頁、 ISSN 0387-4818。
李天祿
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ナビゲーションに移動 検索に移動李天祿(リー・ティエンルー、Li Tianlu、1910年12月2日 - 1998年8月13日)は、台湾の伝統的人形劇「布袋戯」(台湾語でボテヒ、北京語でプータイシー)の国宝級名人。ホウ・シャオシェン監督の映画の常連俳優としても知られる。
経歴
1910年12月2日、日本統治下の台北に生まれる。7歳の時から父に人形の操り方を学び、10歳の時より父について正式に布袋戯を学んで父とともに街中で公演を始めた。1921年に日本第二公学校に入学するが、1923年に退学。1924年に15歳で初めて“雙棚絞”(同じ場所で同時に2つの劇団が同じ劇を演じ、どちらが多くの観客を獲得できるかで芸の優劣を競う。三劇団で行う場合は“三棚絞”)を体験。1929年、人形劇団「楽花園」の頭主となり、楽花園班主の娘と結婚。1931年、楽花園を解散し、「亦苑然」布袋戯班を設立。1935年には“三棚絞”で圧倒的勝利をおさめ、一流劇団の仲間入りをし、20代半ばにして名手として台頭する。しかし1937年には亦苑然を休業し、喫茶店経営に転業。1938年にはそれもやめて牡蠣の販売に転業するがこれも失敗。1942年、英米撃滅催進隊に入り、宣伝劇を上演して日本警察課から給料をもらう。1943年には劇の公演が禁止され、公館建設部隊で労務監督の仕事に就く。
日本降伏後の1946年から再び亦苑然の活動を再開。1952年、全国布袋戯コンクールで北区の優勝を飾る。以後、20年以上にわたって毎年優勝。台湾布袋戯の第一人者として全国に名をとどろかせ、1974年にはフランス人3人が弟子入りするなど、海外からも弟子入りするものが後を絶たないほどの存在となる。1977年には香港芸術祭で初の海外公演。以後、海外公演も相次ぐが、1978年には亦苑然の解散を発表。一方では海外で弟子たちが「也苑然」「小苑然」などを設立し、日本では「己苑然」が1982年に設立されている。1984年には日本の新宿、仙台などで布袋戯を上演。1985年1月には再び日本で『三国志』他を公演。同年5月、「西田社布袋戯基金会」を設立。8月には飯田市の招きで三たび日本公演し、横浜、仙台などの演劇祭にも参加している。1991年、華夏二等勲章を受賞。
映画初出演は公式にはホウ・シャオシェン監督の『恋恋風塵』(1987年)とされているが、実際にはそれ以前にも同監督の『童年往事 時の流れ』(1985年)に小さな役で出演しており、編集段階でカットされていた。さらにそれ以前に李行(リー・シン)監督の『路』(1967年)にもほとんどエキストラ的な出方で出演している。ホウ監督の『戯夢人生』(1993年)では1945年までの李天祿の青年時代の物語がくわしく語られており、他に『ナイルの娘』(1987年)、『悲情城市』(1989年)、『憂鬱な楽園』(1996年)にも出演している。
1998年8月13日逝去。享年87歳。
出演映画
- 恋恋風塵(1987年)
- ナイルの娘(1987年)
- 悲情城市(1989年)
- 天幻城市(1992年)
- 戯夢人生(1993年)兼原案
- 憂鬱な楽園(1996年)
- 台湾、街かどの人形劇(2018年)ドキュメンタリー映画
外部リンク
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