本多仁介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 03:13 UTC 版)
本多初代は大勢の子分を抱えただけに、人一倍情誼に厚く渡世の親分としては政治的な考えのできない不器用な人物であり、財産も人のために多くを散じたというが関西を代表する大侠客であるとの評価は高い。浅野大助が殺された事件の顛末はその性格を現している。浅野は名古屋で本多の旗を守っていたが喧嘩で殺される。暴れん坊だけに目にかけてきた浅野の死に本多初代の怒りを誰もが想像していた。高松弥太郎(梅津会の顧問格で九州きっての暴れん坊)でさえ抗争事件が起こると見ており神戸へ自重するように手紙を送っている。本多は自宅に来た仲裁人を上に上げると丁寧な挨拶の後で「条件があります」とだけいうと「指はいりません。坊主になって世間にでなくてもいい。この喧嘩でケジメを取らされ寂しい思いをしてこれからの渡世を送る人間がでないように、それだけをお願いします」といったという。。その後、実業の世界で大成功を収めている。翌年5月には松葉会の会長であった藤田卯一郎と意気投合し兄弟分の盃を交わしている。
※この「本多仁介」の解説は、「大日本平和会」の解説の一部です。
「本多仁介」を含む「大日本平和会」の記事については、「大日本平和会」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から本多仁介を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から本多仁介 を検索
- 本多仁介のページへのリンク