本丸・大堀切
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:47 UTC 版)
本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には「鐘丸共」と記載されているので、鐘丸として機能していたと思われている。規模は南北40m×東西25m規模があり、上下二段から成り立っている。また東西の裾には土塁があり、本丸下の千畳敷曲輪方向には石垣が築かれている。この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘している。それ以外では小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承されていたが、1955年(昭和30年)の解体修理ではそのような形跡は発見されなかった。これは、1853年(嘉永6年)に8割近くが大修理されており、築城当時の建築物は発見出来ない可能性も指摘されている。また、この北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大規模な堀跡がある。ここから上部と下部を明確に分断している。『戦国の堅城』によると、上部の曲輪はこの堀切があることで、下部の曲輪で食い止め強固に守られる反面、上部から下部へ、下部から上部への戦力の柔軟な運用が難しくしている点を指摘している。 本丸下にある石垣 本丸 大堀切 大堀切
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