豊洲地区 (倉敷市)
早高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 23:45 UTC 版)
上記西田の東隣で、同様に古くは海で近世前半には葦原と干潮時は干潟が広がっていた。寛文3年に早島知行所の戸川氏が16町歩、帯江知行所の戸川氏が14町歩を干拓し新田を開発した。正徳3年に都宇郡高沼村(高沼新田)として成立、早島知行所と帯江知行所の相給地となった。その後、帯江知行所領は寛文以降に延宝7年・元禄11年・同15年の3回にわたり、高沼新田内に新田を造成した。寛政年間の石高は、早島知行所領が249石余り、帯江知行所領が602石5斗であった。明治になると高沼新田の内、旧早島知行所領が早高村として分離した。村名は早島知行所と高沼新田の頭文字の合成である。
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