日本回航とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 18:32 UTC 版)
慶応元年(1865年)、アメリカの会社の手に渡り、長崎に回航された。同年、長崎奉行の服部筑前守常純が186,000ドルで購入。当初は、乗組員も長崎奉行の手で決められ、艦長は支配組頭の柴誠一、乗り組み士官も多くが長崎の地役人だった。 第二次長州征討がはじまったため、幕府海軍所属となったが、艦長をはじめ、乗組員はそのままだった。慶応2年(1866年)7月に小倉へ回航され、小倉口の戦いに参加。長州藩の砲台等と交戦したが特に損害はなかった。8月には幕府海軍の撤退により長崎を経て江戸に向かい、その後天保山沖警備に従事。故障修理の後、幕府重役の上洛などに使用された。 慶応3年(1867年)の暮れ、江戸薩摩藩邸の不穏な動きが高まり、幕府は攻撃を決意した。それにともなって、回天丸は品川沖で警戒をしていたが、薩摩の武装運搬船翔凰丸が、藩邸から逃れた藩士、浪士などを収容し、逃れようとするのを追いかけた。折悪しく、柴艦長は命令授与のため上陸していたが、小舟で自船を追いかけ、最初の攻撃は副艦長が仕掛けた。横須賀沖において、翔凰丸の前にまわった回天丸は、砲撃によって命中弾をだし、翔凰丸に損傷を与えたが、反撃を受け、取り逃がした。ようやく自船に追いついた柴は、そのまま下田まで追跡したが、逃げ切られた。
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