日本人移民開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
1905年にブラジルに赴任した杉村濬公使が、ブラジル政府の閣僚から日本人移民の実施を打診されたことから、その後移民の候補地の1つであるサンパウロ州を視察し早期の日本人移民の実施を本省に打診した。その後杉村の報告書が大阪毎日新聞に掲載されたことから、日本政府だけでなく移民希望者の間で大きな反響を呼ぶこととなった。 これを受けて、移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」の役員であった水野龍がブラジルに向かい、1907年11月には労働者不足にあえぐサンパウロ州政府との間に、「1908年以降に3000人の移民を送り出す」旨の契約を締結し、その後日本全国で移民希望者を募った。なおこの際に、サンパウロ州政府は渡航費の補助を行うことにしたものの、移民の定住とより多くの労働力の確保を求めて「家族単位での移民」を条件としてつけることとなった。 募集期間が半年弱と短かったうえに、「家族単位での移民」という条件のために移民希望者を集めるのに苦心したものの、最終的に781人が第1回の移民として皇国殖民会社と契約を行った。なお、このうちの3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、その後も多くの沖縄県民がブラジルへと移民した。家族単位での移民であったため独身者は認められなかった。そのため、見ず知らずの男女が形式上の夫婦となり家族が構成されるケースが多発し、「構成家族」とよばれた。その多くはブラジルで実際に結婚している。 その後1908年4月28日に、781人の移民は東洋汽船の「笠戸丸」で神戸港を出港し、シンガポールや南アフリカを経由して6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着した。サントス港に到着した移民たちは、その後サンパウロへ鉄道で移動し、移民宿泊施設に収容された後に契約したコーヒー園へと向かった。なお1910年5月には、その後経営難に陥った「皇国殖民会社」を受け継いだ「竹村殖民商館」によって第2回の日本人移民が行われ、906人がサントスへと送られた。
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