日本と「天竺」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:06 UTC 版)
詳細は「天竺」を参照 近代以前の日本において、インドは「天竺」の名で知られていた。ただし、中世・近世の史料に現れる「天竺」と現代のインドの領域が必ずしも一致しないことには注意を要する。 平安時代後期、日本の国家・王権が対外関係と距離を置くようになると、世界は本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)から構成されるとする仏教的な世界認識(「三国世界観」と呼ばれる)が生まれ、12世紀ごろには日本社会に定着した。三国世界観のもとでの「天竺」は多分に空想的な世界であり、また中国よりも遠くにある地域が漠然と「天竺」と呼ばれた。17世紀の地図には、インドを「南蛮」、シャム(現在のタイ)を「天竺」と記すものも存在する。
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