新義真言宗寺院への改宗
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「勝願寺 (鴻巣市登戸)」の記事における「新義真言宗寺院への改宗」の解説
『新編武蔵風土記稿』によれば、こうした状況が徳川幕府第2代将軍徳川秀忠の知るところとなり、秀忠から寺領十石が寄進されて再興された。この時、居宅に滞在していた円慶が新義真言宗の僧であったことから、宗門も改められ、そのまま箕田・龍珠院(後の龍昌寺)の末として属することになったと記されている。 一方、貞享2年(1685年)に第5代将軍徳川綱吉によって発給された『登戸村勝願寺朱印状』によれば、第3代将軍徳川家光によって慶安元年(1648年)8月17日付けで最初の朱印状が発給されたと記されており、元禄15年(1702年)3月の『登戸村勝願寺明細書』によれば「家光公 慶安元年 御朱印 高拾石 寺領門前三軒有之」と記されている。 また、『鴻巣市史』によれば当寺の龍珠院の末寺昇格は、元禄16年(1703年)に箕田・満願寺の取次ぎを経て願書が提出された後のことだとしている。宝永元年(1704年)に末寺昇格を求める龍珠院の門徒・末寺34か寺の願書が江戸四箇寺に提出され、同年11月に末寺昇格が公認された。公認に際して勝願寺から龍珠院に対して祠堂金の名目で金25両が上納され、龍珠院から法流が伝授されるなどして様式が整えられた。なお、『元禄15年龍珠院配下寺院明細書』によれば新義真言宗に改宗して龍珠院の門徒となった後も本堂に阿弥陀如来、道場に不動明王といったように二つの本尊が安置されていたといい、こうした事例は、かつて浄土宗寺院であったことを反映したものと推測される。 境内には延享2年(1745年)に建立された本堂や正確な建立年次は不明の山門、南北朝時代に建立された六地蔵板碑がある。
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