新映画社・新興キネマ時代
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退社と同時に「脱退七人組」で設立した新映画社は当初日活更生の一助に異色作品をもって新風を送ろうという外郭製作が目的であったが、途中から自主経営に方針を変え、森岩雄の支援で12月に村田実・田坂具隆監督、伊藤大輔脚本の第一回作品『昭和新選組』をP.C.L.で撮影したが、経営的手腕の問題で1933年(昭和8年)5月に解散、新興キネマに吸収され短命な存在を終えた。村田も新興キネマ太秦撮影所に入所し、気のない凡作を矢継ぎ早に作るかと思われていたが、1934年(昭和9年)、大佛次郎原作の『霧笛』で久々の高評価を受け、第11回(1934年度)キネマ旬報ベストテン第9位に選出された。この『霧笛』から村田は「国広周禄(國廣周祿)」の脚本名を使い始める。
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