文学にみる崇福寺
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万葉集(巻2-115) 「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」 後(おく)れ居(ゐ)て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の隈(くま)みに 標(しめ)結(ゆ)へ我が背(せ) 北山茂夫は万葉集巻1の「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麻呂の作る歌」の考察で持統天皇が持統天皇3年(689年)ごろに近江志賀へ行幸したと推測した上で、この歌にある穂積皇子は志賀行幸にあたっての勅使、あるいは行幸後の恩寵を伝達するための勅使であったと推測している。櫻井は『日本書紀』の持統6年(692年)閏五月己酉条に「郭務悰が天智天皇の為に造った阿弥陀仏像を上送するよう太宰府に指示した」という記述より、崇福寺に阿弥陀仏像を安置するための勅使であったと推測している。 枕草子(清少納言)二〇八段 三巻本「日本古典文学大系」 「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」
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