支棱・昌江の戦いとは? わかりやすく解説

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支棱・昌江の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:23 UTC 版)

藍山蜂起」の記事における「支棱・昌江の戦い」の解説

1427年10月上旬、明の援軍15二手分かれて進撃してきた。昇が指揮する部隊広西から諒山方面へと進み、沐晟の部隊雲南から河江方面入った藍山義軍指導部は、敵の援軍である昇軍を殲滅するために兵力集中させることにした。 10月8日昇の指揮する部隊が支棱(ランソン省)の隘路前に到達した時、陳榴率い義軍によって伏撃地点までおびき寄せられた。昇は義軍投げたによって戦死し明軍大混乱陥った。黎察・劉仁澍たちはこの機に乗じて攻撃し1万上の敵を殲滅した。 昇が殺された後、副司令官の梁銘指揮取り隊伍整えて昌江バクザン省)に進軍することになった。しかし、途中站・フォーカトで続けて伏撃遭い、さらに3以上が殲滅され、梁銘戦死した兵部尚書李慶も、首を括って自害している。明軍残存部隊はなんとか昌江至ったが、田野義軍包囲攻撃受けて5万損害出した黎利使者遣わして、支棱での戦利品を沐晟の陣営に送らせた。戦利品をみた沐晟は昇の敗北知り本国急いで逃げ帰った昇と沐晟の援軍が完全に壊滅したことを聞き東関にいた王通急いで和解申し入れた1428年1月3日明軍最後部隊国境越えて本国へと帰還した明軍国土から追い出した後、黎利皇帝の座につき、大越国号回復した

※この「支棱・昌江の戦い」の解説は、「藍山蜂起」の解説の一部です。
「支棱・昌江の戦い」を含む「藍山蜂起」の記事については、「藍山蜂起」の概要を参照ください。

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