撤旗事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:40 UTC 版)
1890年初頭、北洋艦隊は冬の間香港に停泊していた。2月24日、提督の丁汝昌が海南を哨戒するために艦隊を一時離れた。3月6日、旗艦「定遠」に掲げられていた提督旗が突然降ろされ、代わりに総兵旗が掲げられた。「北洋艦隊規則」によると、艦隊には提督1人と総兵2人が置かれる。提督の下では右翼総兵が最高位となる。右翼総兵で「定遠」艦長の劉歩蟾が、艦隊を代行で指揮するために旗を変えるように指示したのだった。これに対し、イギリスから派遣されていた海軍顧問のウィリアム・ラング(William Lang、琅威理)大佐が異議を唱えた。丁提督が艦隊を離れたとはいえ、「副提督」の立場である自分が艦隊にいるのだから、提督旗は掲げたままにするべきだとラングは考えていた。劉歩蟾が従わなかったため、ラングは李鴻章に指示を仰いだ。李鴻章は、北洋艦隊規定によれば提督の職は艦隊に1つだけであり、「副職」などというものはないとした。6月25日、北洋艦隊が天津に到達した後、丁汝昌とラングは李鴻章と撤旗事件について話し合ったが、李鴻章は劉歩蟾の行動を支持した。ラングは怒りに任せてその場で海軍顧問を辞任すると伝え、李鴻章はそれを受理した。イギリスに帰国したラングは、清での屈辱的な体験を公表し、大騷動となった。イギリス外務省は、この件により、清にいる全てのイギリス人顧問を帰還させることさえ考えた。11月4日、イギリス政府は、新しい海軍顧問を招聘したいという李鴻章からの要求を拒否し、一部の在清職員を引き上げ、清国海軍からの留学生を今後は受け入れないと発表した。
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