戦場となった場所について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 14:34 UTC 版)
「般若野の戦い (平安時代)」の記事における「戦場となった場所について」の解説
般若野とは現在の高岡市南部(北般若地区、中田地区、般若野地区)から砺波市東部(南般若地区、東般若地区、般若地区、栴檀野地区、栴檀山地区)にわたる広範囲な地域を指す。 般若野の戦いが起きた場所については正確な記録が残っていないため特定することはできない。しかし、平氏軍(平盛俊軍)が寒原の険(現在の親不知付近)を目指していたこと、また中田通(倶利伽羅峠-般若野-呉羽山)が当時北陸道の主道であったことなどを考えると、現在の高岡市般若野地区にある弓の清水(ゆみのしょうず)周辺が戦場となったのではないかとする説が有力である。現地には弓の清水古戦場、般若野古戦場の案内板がある。 『参考源平盛衰記』では、木曾義仲が般若野御河端で軍議を練ったとされるが、御河端の所在地は不明である。 『平家物語(長門本)』では、木曾義仲軍は5万余騎を率い「池原の般若野」に布陣したとの記されているが、現在の栴檀野地区の池原(砺波市池原)に木曾義仲が布陣したとは考えられていない。「般若野の池原」ではなく「池原の般若野」とあることから、古くから荘園経営されてきた「池原」の地名は平家の物語の中で知名度が高かったため、このように記されたのではないかと考えられている。
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