成立・構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 08:08 UTC 版)
『ラヴレンチー年代記』の原本は、11世紀の始め、『原初年代記』をヴィードゥビチ修道院の典院・シリヴェストルらが再編・加筆することによって成立した(「ラヴレンチー写本」(後述)の1110年の記事の後に、1116年の記述と共に「聖ミハイル(:ヴィードゥビチ修道院を指す)の典院シリヴェストルは年代記記者たちと共に著述をなした」という主旨の記述がある)。現存するこの年代記の写本としては、1377年に修道士ラヴレンチーらの手によって完成した、「ラヴレンチー写本」が著名である。 『ラヴレンチー年代記』は、以下の資料に基づき編纂されている。 852年 - 1110年:『原初年代記』 1110年 - 1161年:南ルーシの出来事を記した、何らかの年代記 (この間の1162年 - 1163年に関しては記述がなされていない。) 1164年 - 1305年:北東ルーシの出来事を記した、何らかの年代記 また、1096年の項に、『ウラジーミル・モノマフの庭訓(ru)』が挿入されており、この挿入は他の年代記にはみられない。ならびに1263年の項には『アレクサンドル・ネフスキー伝(ru)』からの挿入が見られる。 下敷きとなった原初年代記はキエフを中心とする南ルーシの出来事の記録に重点を置いている。一方、12世紀の記述より、ウラジーミルの動向に関心が移り、13世紀初頭の記事は、ロストフ公国に関する記事に大きく比重が傾いている。このことから、『ラヴレンチー年代記』は12世紀の北東ルーシに関する重要な史料の一つとなっている。 ニコライ・ベレジュコフ(ru)の説によれば、1110年 - 1304年間のうち101年は、3月を新年とする暦法(ru)が用いられている。
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