成城学園との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:20 UTC 版)
「成城中学校・高等学校」の記事における「成城学園との関係」の解説
(以下の記述は、校史『成城学校百年』に基づく) 1916年、澤柳政太郎が、成城学校の9代校長に就任したが、その就任の条件として、小学校を付設させることを挙げた。その翌年の1917年、成城学校内に、成城小学校が新たに付設され、新教育の実験校となった。 以来、親たちより、旧制中学校以降も小学校と同様の教育をして欲しいという熱心な希望があり、1923年、成城小学校の卒業生が進学する、成城第二中学校が開校した。 さらにその卒業生の進学先となる旧制高等学校の問題が出てきた。また、将来の生徒増を考えると、教室、敷地も狭くなるため、東京府郊外へ新校地を求めていた。そして、関東大震災を契機に、府下北多摩郡砧村喜多見(現:世田谷区成城)で、それが実現することとなった。 1925年、成城第二中学校が移転し、これに伴い、成城玉川小学校が併設された。1926年、7年制の成城高等学校が創設開校され、成城第二中学校は法規上自然廃校となり、高等学校の尋常科として、包括された。 1929年、砧村の成城小学校、成城第二中学校は、正式に成城学校の財団とは分離独立している。
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