愛知県への移管
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 00:08 UTC 版)
1917年(大正6年)6月に尾張徳川家は、明倫中学校の愛知県立学校への移管の方針を決定、同年11月7日に 校舎と向後10年間の経常費(年12千円)の寄附 5年以内の別地移転 学校の名称を変更しないこと などの条件で松井茂愛知県知事と合意に到達、博物館事業も愛知県に移管されることになった。 研究博物館を含む私立中学校の経営は尾張徳川家にとっても大きな負担だったとみられている。 明倫中学校では森本清蔵校長が尾張徳川家第19代当主・徳川義親との意見の対立を背景に、1916(大正5)年6月に辞職し宮崎県立宮崎中学校長に転任した後、校長が空席となっていた事情もあった。 また1917年以降、義親の下で尾張徳川家が名古屋に所有していた土地等の整理が大々的に行われており、明倫中学校・博物館の譲渡の際に同家は愛知県に1924(大正13)年3月31日までの別地移転を求めたが、これは移転後の土地の売却処分を前提とした要望だったとみられている。 尾張徳川家側は、上述の事情により私学では教師を探すのが難しいことや、義親が東京府下に建設中だった生物学研究所の事業に注力することを移管の理由に挙げていた。 1919年(大正8年)4月に明倫中学校は愛知県に移管されて「愛知県立明倫中学校」となり、明倫博物館は愛知県立明倫中学校付属博物館となった。
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