徳之島へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:36 UTC 版)
3月16日、13艘が徳之島へ先行した。これに対し徳之島では一部島民が抵抗したが、速やかに制圧された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。[要出典]湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。[要出典] 秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た。 徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている。 本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。
※この「徳之島へ」の解説は、「琉球侵攻」の解説の一部です。
「徳之島へ」を含む「琉球侵攻」の記事については、「琉球侵攻」の概要を参照ください。
- 徳之島へのページへのリンク