建設的不信任案否決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「建設的不信任案否決」の解説
だが国内では野党のみならず与党内でも東方外交に対する批判の声は挙がっていた。東側への「接近」は共産主義への宥和政策であり、アデナウアー以降の「西側統合」を揺るがすものと非難された。また旧ドイツ東部領から追放された「被追放民」にとっては故郷が失われ共産主義の支配を認めることを意味していた。 1972年4月、キリスト教民主同盟(CDU)・社会同盟(CSU)は連邦議会に建設的不信任案を提出し、4月27日に採決が行われた。西ドイツの基本法では建設的不信任案が通った場合、首相は議会を解散することが出来ず、後任の首相にバトンを渡すだけである。この場合、次の首相の指名もこの不信任案に入っており、1972年4月にはブラントの次期首相にキリスト教民主同盟(CDU)のライナー・バルツェルが指名されていた。事前には可決されるという見方もあったが僅か2票差で否決された。議員総数496名で過半数は249票、不信任に賛成が247票であと2票足りなかった。そして5月17日にモスクワ条約とワルシャワ条約の採決が行われて、野党側が戦意喪失で棄権にまわり、モスクワ条約は議員総数496名で賛成248名・反対10名、ワルシャワ条約は同じ賛成248名・反対17名でちょうど半数の賛成で野党側の多くが棄権に回ったため薄氷を踏む僅差で批准された。この間に水面下で与野党の駆け引きがあったが、皮肉にもキリスト教民主同盟(CDU)党首であったライナー・バルツェルの計らいが大きかったと後にブラントは高く評価していた。
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