建国~ニネヴェ陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 14:43 UTC 版)
「ナボポラッサル」の記事における「建国~ニネヴェ陥落」の解説
アッシリア支配下にあったバビロニア南部(カルデア)の属州総督だった。紀元前627年頃にアッシリア王アッシュールバニパルが没すると、アッシリア帝国内には政治的に不安定な状況が生まれた。この間隙を突いて紀元前625年に反乱を起こし、バビロンに入城してアッシリアからの独立とバビロン王を宣言。紀元前616年までに、ナボポラッサルはバビロニア地方の全ての地域を支配下に収めた。 紀元前616年頃からバビロニア北部へ勢力を拡大(en:Battle of Arrapha)。アッシリア帝国とエジプト王国の同盟に対抗するため、ナボポラッサルは、メディア国のキュアクサレス王と同盟を結ぶ。紀元前615年までに、彼はニップルを占領。その後、アッシュールを包囲するメディア軍を支援するため、彼は軍を率いて進んだが、バビロニア軍が到着する前にアッシュールは陥落してしまった(アッシュール陥落(英語版))。 内部の争いと無能な統制により、アッシリアは弱体化していた。紀元前612年、ニネヴェを略奪するために集結したバビロニア軍とメディア軍の連合軍に対抗する力は、もはやアッシリアには残されていなかった。長期の包囲戦(ニネヴェの戦い)の末、連合軍は都市を制圧。ニネヴェ陥落の際、アッシリア王シン・シャル・イシュクンはおそらく死亡したものと思われる。シン・シャル・イシュクンの兄弟だったかもしれない、アッシュール・ウバリト2世は残党を率いてハランへと逃れていった。
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