平田氏嫡流の末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/01 06:32 UTC 版)
長男:新次郎宗次慶長7年8月17日(1602年10月2日)、家久(忠恒)が日向国の野尻(現・宮崎県小林市野尻町)にて狩りを行った際に同行、伊集院忠真共々射殺された(宗次を射殺した穆佐郷士の押川則義は、忠真と宗次が馬を取り換えていたため誤射したと述べ、責任を取って切腹)。享年17。唯一、増宗誅殺とは時期的に関係していない。 次男:新三郎行宗慶長15年11月15日(1610年12月29日)、筑前国で船が転覆した際に自殺したと『本藩人物誌』に記される。享年19。 三男:(名称不明:僧侶)父に連座して琉球国へ流刑。 四男:治部卿硫黄島へ流刑。 実弟:越前守宗親亀寿付きの家老。切腹を命じられ、慶長17年4月26日(1612年5月26日)に死去。享年42。 宗親長男:左馬頭宗次父の宗親ら(計18名)と同時に刑に処された。享年20。 宗親次男:新八郎父の宗親らと同時に刑に処された。
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