布施定安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/11 21:32 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 正保4年(1647年) |
死没 | 享保2年6月18日(1717年7月26日) |
改名 | 布施清五郎(幼名)、孫右衛門、刑部、和泉、白水 |
戒名 | 七雨軒備翁白水居士 |
墓所 | 宮城県仙台市青葉区の光明寺 |
主君 | 伊達綱村、伊達吉村 |
藩 | 仙台藩奉行(他藩の家老に相当) |
氏族 | 布施氏 |
父母 | 父:布施備後定時、母:大町大膳定頼女 |
兄弟 | 恒時(早世)、基信 |
妻 | 窪田氏女 |
子 | 定信、定寛 |
布施 定安(ふせ さだやす、正保4年〈1647年〉 - 享保2年6月18日〈1717年7月26日〉)[1]は、江戸時代前・中期の武士。仙台藩の4代藩主伊達綱村・5代藩主吉村に仕えた。特に、伊達吉村の右腕となって、15年にわたり仙台藩の財政改革に取り組んだ。また、新弓の町を作った。
先祖
布施氏の姓は藤原といい、伊達家累代の家臣である。布施家の家伝によれば、延喜・延長(10世紀初頭、醍醐天皇の元号)の頃、三善清行の第八男浄蔵の嫡子が、近江国布施というところに住んで布施と名乗り、その後京都に住み、関東将軍家に属し、漸次東北へ移って伊達家へ仕えたという[1][2][3]。
初代 布施備後守(某)
官職名は備後守、諱は不明[1]。伊達晴宗・輝宗・政宗と伊達家三代にわたって仕えた。布施備後の名は、天文22年(1553年)の「晴宗公采地下賜録」にみられる。晴宗が布施備後あてに、下長井中村(現在の山形県西置賜郡飯豊町中)にある所領を認め、新しく付与するものや、家屋や地税、その他の税を免除する等の記述[4] [注釈 1]がある。布施備後守は、天正13年(1585年)11月、安達郡本宮の人取橋の戦いで、嫡子弥七郎とともに出陣し、敵陣中に討ち死にした。
2代 布施定時
官職名は備後守、別名は孫右衛門。弥七郎の弟(何番目の弟かは不明)で、2代目として家を継ぎ、輝宗・政宗二代に仕えた。天正年中にしばしば陣中の謀議に加わり密事の御使などを勤めた。天正19年(1591年)正月、太閤の召しを受けての上洛は、政宗にとって一大事であった。この時、政宗より指名を受けて供に加わっている。朝鮮の役(文禄の役)の際には、時の奉行屋代勘解由(屋代景頼)の評定人(補佐役)として富塚宗綱 [注釈 2]とともに岩出山留守居の任を果たした。知行高は900石(90貫文)[注釈 3]で、そのうち400石は拝借金代に差し上げた。別に養老資金としてもらった100石分は三男時成に譲り、分家とした。(時成は、政宗に奉公し、後に知行高500石となった。大阪夏の陣には、政宗の軍に進んで加わり、自ら首級を取るなど戦功を挙げたが、仙台で没している。時成に子はなく、定時が創設した分家は一代で途絶えた。)[1][5]
2代定時の墓について、「津山町史」では、「夫婦共に金成の小原木・喜泉院にある。」とあるが、墓は確認されていない。
なお、1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では、萩原流行が布施定時役を演じている。[注釈 4]
3代 布施定成
官職名は備前守、別名は正六および清左衛門。政宗・忠宗の二代に仕え、慶長10年(1605年)4月、2代将軍徳川秀忠上洛参内に従った政宗の供を勤めた。同18年(1613年)年12月、幕府から仙台藩に対し、越後高田城の営築が命じられたが、翌年、これに出駕した政宗の供を勤めた。さらに、元和元年(1615年)、政宗の子伊達秀宗が伊予国宇和島へ封じられた際、その国入りの供も勤めている[1]。
3代定成夫婦の墓については、「津山町史」で「夫婦共に金成の小原木・喜泉院にある。」とあるが、2代同様に墓は確認されていない。
4代 布施定時
官職名は備後守、別名は百助・清左衛門・孫右衛門。忠宗・綱宗・綱村の三代に奉公した。綱村公の代には、若干の新田を得て、知行は、605石7斗7升となった[1][6][7]。
妻は、大町大膳定頼[注釈 5] の娘で、定安を産んだ。
4代定時の菩提寺は詳らかではない。妻の墓は、仙台北山光明寺にある。


生涯

布施家5代目にあたる定安は、仙台藩の奉行となり、布施家中興の祖と称された人物である[12]。伊達吉村の側近として、多くの反対者の批判を受けながらも、破綻状態にあった仙台藩の財政立て直しに尽力した[13]。定安が奉行(他藩の家老にあたる。仙台藩の役職参照)になった背景には伊達騒動が関係している。この事件後、仙台藩では、一家等、家格上位者を奉行などの要職から徐々に遠ざける様になり、[注釈 7]実務能力重視・家臣団のバランス重視の政治体制へと移行していった。
以下、定安が寛文11年(1671年)25歳で御次祐筆(書記)になってから奉行になるまでの経歴である。[15]
寛文12年(1672年)26歳、御前祐筆。 延宝5年(1677年)31歳、兄の勘兵衛恒時が33歳で病死し、後継となった。 天和元年(1681年)35歳、郡奉行(本吉南方を担当する)。[16] 貞享4年(1687年)41歳、貞山公年譜主任。 元禄2年(1689年)43歳、近習役、宮方御廟棟分奉行(日光修造)。 元禄3年(1690年)44歳、若年寄支配。 元禄8年(1695年)49歳、評定役(名を刑部と改める)。 元禄9年(1696年)50歳、9月、若年寄。同10月、評定役(名を和泉と改める)。
元禄11年(1698年)、定安52歳。伊達綱村晩期に奉行に任ぜられ、家格は永代着座(仙台藩の家格参照)となった。布施家の在郷屋敷は栗原郡三迫大原木村(現宮城県栗原市金成町大原木)にあった[17]が、元禄13年(1700年)には所替えで桃生郡中津山邑(現石巻市桃生町中津山)を賜い、元禄15年(1702年)500石加増され、本領2000石(+役料100俵)となった[18]。
元禄16年(1703年)、伊達吉村が藩主となり、仙台藩の財政再建に着手した。当時の仙台藩は、洪水や干害・冷害による凶作の影響に、綱村から吉村への代替わりに伴う負担も加わり藩の財政は非常に苦しくなっていた。そこで、藩政立て直しの手段として、倹約令を出したりした。また、綱村時代から出していた藩札の廃止や、藩士からの家中手伝金や百姓町人からの借り上げ等で藩の基金を捻出しようとした。この様な改革に対し、一門衆その他の諸士からは常に反対されていたが、吉村は財政立て直しのためにはやむを得ないとして定安の意見を多く採用した。定安は反対派から藩主側の人間と見られながらも大胆な改革を実行しようとした。
宝永年間には吉村から多年の功を賞され、1000石の加増を仰せ出されたが、十分な働きができなかったとして、自らは200石で十分であるとし、加増分である200石をもって新しく弓足軽を置いて万一の備えとすることで藩恩に報いることを申し出た。定安は吉村の許しを得て、宮沢橋近くの河原町に弓隊を置き、仙台城の守りを固めた。これが、「新弓の町」の始まりである。[19]。
正徳元年(1711年)3月、定安は「正徳2年以降5年間、家中知行の四分の一を召し上げる」「知行一貫文につき、三切ずつ永久に上納する」のどちらかを藩士たちに選択させることを提案した。吉村はこの提案を容れたが、これに対し一門衆及び諸士が猛反発したため、実現しなかった。
この年の11月、幕府から日光東照宮の普請が命じられ、追加借入を余儀なくされた。
この様に、藩財政の健全化を図るべく様々な施策を打ち出したが、前代からの多額の借金に加え、特にこの頃頻発した天変地異による収入の減少や日光普請などで、財政再建は思う様に進まなかった。
定安は2年後の正徳3年(1713年)、病気を理由に辞職を願い、藩政の中枢から退いた[20]。隠居所を「仙台城東北の小泉村安養山」(現在の仙台市宮城野区東仙台)に構えることを許されて、白水と改名し「七雨軒(ななみけん)」という庵を建てた。奉行時代の役料100俵を返し、隠居料として300俵一生扶持を賜う。以降、亡くなる享保2年(1717年)6月16日まで、ここに住み続けた。

なお隠居屋敷(七雨軒)の場所であるが、江戸時代の「野初め絵図(のぞめえず)」に、「布施白水」の名が見える(絵図中央)。絵図には川や堤、山などの位置がかなり正確に描かれており、現在の地図と対比することができる。
没後
生前、定安は、先祖供養のため七雨軒敷地内に光明寺塔頭(たっちゅう)龍雲庵を建てていた。夫婦共にこの廟所に葬られた。法号は七雨軒備翁白水居士[21][22]。光明寺にある布施家の布施定安碑銘(平成11年5月24日、布施敬二郎記)には、「当初安養山にあった墓碑は、(昭和4-5年頃)東九番丁の法輪院に移された。さらに(昭和55年頃に)葛岡に埋葬されたが、その後墓の位置がわからなくなってしまった。忘失は惜しいことである。事実の書かれた碑文[23]を、ここに復刻する」[注釈 8]という意味の漢文が記されている。

また、七雨軒は、布施家の下屋敷として使われ続けた(一帯は、布施山と称されていた)[25]。
信仰

定安存命中の正徳6年(1716年)、藩命を受けた息子定信は、京都の石清水八幡宮(男山八幡宮)から分霊し、新弓ノ町八幡神社として祀り、弓隊の氏神とした。定安没後も、彼の恩に感ずるこの町の武士たちは、社内に布施大明神として祀り、小祀を年々絶やさず現在に至っている[22]。
末裔
本家
名 | 別名 | 主な役職 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
6代目 | 定信 | 備前 | 江戸番頭兼申次役 大番頭 若年寄 | 父定安より中津山村の知行2000石を受け継いだが、正徳5年(1715年)、甥の運之亟定寛に300石を分けて分家創設(給人町布施家)。 藩命を受け正徳6年(1716年)、弓組の氏神として、新弓の町八幡神社創設。 享保8年正月(1723年)、桃生郡中津山村より本吉郡柳津村へ所替を命じられた。[26](郡名は違うが、中津山村と柳津村は、隣同士である。) 本家は柳津村に所替えしたが、分家は中津山村給人町に残り300石を有した。 |
定安 | 数馬 | 早世。光明寺墓誌では7代目としているが、津山町史では、「病気のため家を受けずに没した。」[27] とある。 | ||
7代目 | 定誠 | 舎人 | 脇番頭 | 数馬の子(定信の嫡孫という事で藩に願い出て家を継ぐ)。妻は大條道英(大條氏)14代の娘である。 |
8代目 | 定寿 | 清五郎 | 武頭 永代着座(三番座) | 明和4年(1767年)、知行1700石を受け家を継いだとの記録あり。安永3年(1774年)、江戸芝邸にて客死。[28] |
9代目 | 定胤 | 文之助 | 脇番頭 | 定誠の子(定寿の弟)。 (桃生町史及び給人町布施氏系譜では、分家の文之助が、本家に養子に入ったとの記載がある。) |
10代目 | 定卿 | 采女 | 大番頭 | |
11代目 | 定保 | 舎人 | 武頭 | 定卿の次男。 |
12代目 | 定徳 | 備前 | 大番頭兼若年寄、軍事局(奉行・若年寄) | 慶応元年(1865年)、戊辰戦争で福島へ出陣(軍事局)[29][1]。 |
13代目 | 定延 | 泉 | 早世。 | |
14代目 | 淡 | |||
15代目 | 信太郎 | |||
16代目 | 敬二郎 |
定安の子定信は、享保8年(1723年)に在郷屋敷を本吉郡柳津村(現在の登米市津山地域)に移され、在所拝領となった。
定信の人物について、「神儒を尊び、兵法武技各々その奥旨を究め、その他職礼歌謡、茶事蹴鞠の類まで学ばないものはなかった。宝暦4年没。行年73歳。」との記述がある[30]。
12代目の定徳のときに版籍奉還があり(明治2年(1869年))、2年後の明治4年(1871年)には宮城県国分小泉村(布施家旧下屋敷)にて帰農することになった。当時の家族9人、家中はその家族たちを含めて302人であった。俸禄が絶えた中で農に励んだが、その後、在所柳津村に帰った。定徳は明治6年(1873年)の学制施行とともに、柳津小学校教師を命ぜられ、妻のとらとともに教育に尽くした[1]。
13代定延(泉)は、鮎貝盛成の二女ますを娶っている。ますは、北山キリスト教墓地に眠る。
14代目の淡(あわし)は宮城学院・東北学院で教鞭をとった洋画家である。淡の長男信太郎・次男悌次郎も洋画家として名を馳せた[31][32]。淡も、北山キリスト教墓地に眠る。

分家
名 | 別名 | 主な役職 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
初代 | 定安 | 和泉 | 奉行 | 本家5代目。定安の姉は、宇和島藩松根久兵衛広隆に嫁ぐ。その系は、江戸末期の家老松根図書(ずしょ)に続く。図書の孫には俳人の松根東洋城、電力界のフィクサーとよばれた松根宗一がいる。 |
2代目 | 定寛 | 運之丞 | 武頭 | 定安の弟の子。正徳5年(1715年) 分家創設。 |
3代目 | 定時 | 卯平次 | 脇番頭 | 本家からの養子。 妹の若野(和歌野)は、御中奥、御年寄(阿監)となる。 一番下の弟時行は、給人町布施家の別家となり、登米郡迫町佐沼の布施家として続いている。 |
4代目 | 定雄 | 千代之進 | 本家からの養子(本家7代定誠の子)。 | |
(定胤) | (文之助) | (『桃生町史』によれば、定胤は「5代目として分家を継いだが、後に本家の婿養子となった」とある。) | ||
5代目 | 定静 | 保(小膳) | ||
6代目 | 貞矩 | 市郎 | ||
7代目 | 貞之 | 雅楽之助 | 武頭 | 戊辰戦争に出陣し、8月16日、相馬口にて討死。28歳没[1][33]。 |
8代目 | 貞真 | 保 | 慶応4年(1868年4月)、14歳で布施家名代として戊辰戦争に出陣。明治維新後、給人町を離れる[34]。 | |
9代目 | 貞高 | 勝之助 | 給人町布施家祭礼継承。佐々木氏養子となり、以後佐々木姓を名乗る。 | |
10代目 | 清次郎 | |||
11代目 | 栄 | |||
12代目 | 栄喜 |
分家の人名や定胤の扱い[注釈 10]など、『桃生町史』『給人町布施家系譜』と『津山町史』とで記述が異なる場合があるが、ここでは『津山町史』の記述に統一して示した。

本家6代目定信は、正徳5年(1715年)1月15日、仙台藩の家臣であった中山武左衛門基信の次男定寛を給人町(現石巻市桃生町)に分地して別家とし、この家も布施を称した[注釈 11]。これが布施分家の始まりである。家格は召出二番座[注釈 12]、知行は300石である。[31]。
分家8代目貞真(保)は、「明治維新後、知行300石を返上し、妻の実家である前谷地村舟島の齋藤氏の地に転住」した[33]。この「前谷地村舟島」とは舟島山[注釈 13]付近を指す。また、別の書には「明治4年に仙台の北四番丁支倉通西南角に屋敷[注釈 14]を持ち、宮城郡国分小泉村に住んだ」との記述[31]がある。「仙台の北四番丁支倉通西南角」は現在の東北大学病院の向かい側、「宮城郡国分小泉村」は仙台市宮城野区東仙台から安養寺にかけた地である。
嫡男移転後に9代目として布施氏分家の系譜を引き継いだのは、弟の貞高(勝之助)である。「給人町布施氏系譜」には、「勝之助維新後帰農仕(つかまつ)り故あって佐々木氏の養子と相成るも布施家の系脈を保つため、旧家中佐藤友吉定之進父子の助力と奔走に依り旧下屋敷を他より買戻して住し布施氏の系を継ぐも姓を佐々木とす」とある。『桃生町史』資料編には「中津山村佐々木氏の養子となり(給人町の)布施氏旧屋敷に住み、布施家の祭礼を継承した。その子孫は、代々この地に住み、清次郎ー栄と続いている。」[37]とある[注釈 15]。栄の跡は、栄の子である栄喜が分家布施家の祭礼継承者としてその系を継いでいる。[38] 「備前長船」銘の脇差が伝わっている。[39]
脚注
注釈
- ^ 「三一四 下長井中むら(村)の内、万年斎知行のとをり不残、冨塚あふミ(近江)のふん(分)三けん(軒)、ゆ(湯)の村図書助分一間(軒)、うちや(内谷)太郎ゑもんふん(分)山さき在家、新やま在家各下、むねやく(棟役)、田(段)銭、しょ(諸)公事さしおき候」ふせ(布施)の備後守(宛)。「三一四」は、下賜録内に付された番号。
- ^ 冨塚宗綱の父は、伊達稙宗の軍に付いて戦った冨塚近江仲綱である。晴宗公采地下賜録には、布施備後が冨塚近江所領の一部を拝領した記述がある。
- ^ 仙台藩は、貫高制を用いている数少ない藩である。全国的には1貫文≒2石の様であるが、仙台藩では1貫文≒10石と他藩との違いが大きい。読み手側に誤解を生じさせる可能性が高いと考えられるため、以下の文章では、貫高表記は敢えて1貫文≒10石として石高表記に直している。
- ^ 2代布施定時は、1〜4話、7話、9話、11〜14話、16〜21話、26話に登場する
- ^ 仙台藩家臣に、源姓または藤原姓といい、大町筑後守(山田十郎)助経を祖とする大町家がある。助経は筑後国(福岡県)奉行人で、5,000貫文(当時のこの地域の換算率は不明であるが、1貫文約10石と考えれば、10,000石程)余を同国三毛郡に領し、大町荘に住んだことから大町を姓とした。助経ー助継ー範継ー康継ー貞継と続き、貞継は鎌倉幕府滅亡後、奥州に移って伊達行宗に仕え、羽州置賜郡(山形県)長井荘小松郷に住んだ。その跡は伊達家定の次男が継いで家継と称し、諸所の合戦に功があり、長井荘に5,000石の采地を与えられた。その跡は定輔ー宗明ー宗衡ー宗継ー頼継ー頼康と続き、頼康は天文年間に刈田郡に5,000石余を与えられて、同郡三沢郷(白石市)大町館に住んだ。頼康の嫡子兼頼は天文の乱で稙宗方についたため、晴宗の代に浪人となっていた(弟の頼明が正統とされた)が、兼頼は伊達政宗の時、天正13年人取橋の合戦に嫡子継頼と15歳の孫である義頼を伴って参戦した。兼頼と継頼は家士五人とともに討死した。生き残った義頼は人取橋の戦の功を賞されて1,030石を与えられた。義頼は慶長18年徒小姓頭となり、大坂冬の陣に従した。戦場巡見の日に豊臣軍の銃弾で目を負傷し、夏の陣には従うことはできなかった。元和年中に奉行職に挙げられ、着座の家格となった。その家は通頼が継いだが、弟の定頼は寛永3年(1626年)、200石を受けて分家し、伊達忠宗の代に胆沢郡(岩手県)下姉躰村に野谷地を開き784石となり、のち着座の家格を与えられた。[8] [9]。
- ^ 奉行の職が制度的に確立したのは、寛永13年(1636年)政宗が没し、2代忠宗が襲封してからである。奉行の定員を6名とし、「六人の奉行衆心得可申書出」(「大日本古文書」家わけ第3、伊達家文書之3の内)の第5条では、「奉行六人之内、二人者江戸供奉、残四人内、二人者仙台、二人者在郷へ可為休息事」とその勤務割が示されている。以後、この様な職務体制がとられてきた。
- ^ 仙台藩では、最高位の一門を筆頭に、一家、準一家、一族、宿老、着座、召出等家格の順位が続く。一門は藩主名代などの儀礼的な任にのみ就き、奉行以下の藩政を担う役職に任じられることはなかった[14]。奉行等の行政執行職には、一門以外で、着座以上の者が就く決まりがあった。
- ^ 原文は「没後初眠於小田原安養山室 亦眠於同所後 被移葬於東九番丁法輪院 次被転葬於葛岡霊地 以後所在不明 惜其忘失 而拠事実文編 於比復刻其碑銘」。この前には、江戸後期の金石志(金石文を収集した書物)である『仙台金石志』所収の、定安生前の業績に対する賛が載せられている。
- ^ 布施の他にも苗字だけのものがある。布施の次に黒沢備後の名がある。黒沢は、1723年から布施の後に中津山(寺崎を含む)の領主となり、明治まで続いた。別のページには、後藤孫兵衛(元康)の名前が見える。後藤孫兵衛は、1735年に奉行となり吉村を支え、1750年に没している。この資料は、1723〜1750年の間に書かれたものである。この間の布施は、定安の子の布施定信である。
- ^ 4代目定雄(千代之進)の次が誰かについて、『津山町史』は定静であるとし、『桃生町史』は定雄と定静の間に定胤を入れている。『津山町史』は定胤は本家の人であり、兄である本家8代目定寿が江戸邸で客死して子もなかったため、そのまま本家の跡を継いだものであるとする。[35]これに対し『桃生町史』は定胤を分家の人と考え、一度分家を継いだ後、定寿の急死をうけて本家に入ったものであると述べている[33]。
- ^ 中山基信は布施定安の実弟で、中山家に養子に入った人物である。定寛はその子なので、実弟の子である定寛を布施の分家としたことになる。
- ^ 「召出」は藩主の正月の宴会に召し出される資格のある家柄で、「二番座」は正月二日の儀式に出ることが許されている家格である。
- ^ 現在の石巻市前谷地前ノ谷地に位置するごく小さい丘。坂上田村麻呂が鬼を退治するため、旭山を切り取って投げたときに出来たという伝説が伝わる。
- ^ 寛政元年(1789年)の仙台城下絵図をみると、北四番丁支倉通西南角の地に「布施小膳」(分家5代目)の屋敷が見え、この地に分家の上屋敷があったことがわかる。
- ^ 貞高が養子となった「佐々木氏」について、布施家とどのような関係にあったのかは不明である。また奇妙なことに、貞高は佐々木氏の養子であるにもかかわらず、妻を佐々木氏ではなく石井氏家中真藤氏から迎えている[33]。
出典
- ^ a b c d e f g h i 『津山町史』資料編Ⅱ、p.288-p.305。
- ^ 『津山町史』前編、p.249。
- ^ 『布施氏先祖之勤功書上』明和九年三月、布施清五郎。
- ^ 日本文化研究所研究報告別巻第四集 東北大学日本文化研究所 1966年3月「晴宗公采地下賜録」とその考察(豊田武、加藤優)、p.198。
- ^ 『伊達世臣家譜』巻之六、布施。
- ^ 『津山町史』前編、p.250‐p.251。
- ^ 『伊達世臣家譜』巻之六、布施。
- ^ 『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店、1994年初版発行、p.539。
- ^ 家臣人名事典編纂委員会『三百藩家臣人名事典 第一巻』新人物往来社、1987年第一刷発行、p.100。
- ^ 『仙台城下絵図』寛文4年 1664年。
- ^ 東京大学学術機関リポジトリ、東京大学経済学部資料室年報3「仙台藩知行宛行状について」(本多俊彦)表1No.39-43参照。吉村公時代の知行状の料紙は斐紙が使われているとの記載あり。
- ^ 仙台、光明寺布施本家墓碑、布施和泉定安碑銘。
- ^ 『津山町史』、p.251-p.253。
- ^ 東北大学リポジトリ 齋藤鋭雄「仙台藩家臣団の成立と編成」p.215-p.217、2013。
- ^ 『津山町史』資料編、柳津布施家系譜考。
- ^ 横山北沢村風土記
- ^ 東北大学リポジトリ 齋藤鋭雄「仙台藩家臣団の成立と編成」p.155、2013。
- ^ 『津山町史』資料編、柳津布施家系譜考。
- ^ 『津山町史』前編、p.252-p.253。
- ^ 『宮城縣史』2(近世史)1966年、p.429-p.437。
- ^ 『津山町史』前編、p.251-253。
- ^ a b 「第17回新弓ノ町八幡神社(若林区新弓ノ町)仙台の神社たち 」2010年3月28日、2025年3月17日閲覧。
- ^ 『津山町史』資料編Ⅱ、p.280-p.281。
- ^ 『仙台城下絵図』寛政元年 1789年。
- ^ まるっとつるがや地元学グループ「鶴ヶ谷」、2022年1月発行。
- ^ 『津山町史』前編、p.253。
- ^ 『津山町史』前編、p.255。
- ^ 『津山町史』前編、p.256。
- ^ 『津山町史』前編、p.260。
- ^ 家臣人名事典編纂委員会『三百藩家臣人名事典 第一巻』新人物往来社、 1987第一刷発行、P.152
- ^ a b c 『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店、1994年初版発行、p.860。
- ^ 『津山町史』前編P.260-264。
- ^ a b c d 「給人町布施氏系譜」(佐々木栄喜氏所蔵)。
- ^ 『桃生町史』資料編、p.454。
- ^ 『津山町史』前編、p.256。
- ^ 『仙台城下絵図』寛政元年 1789年。
- ^ 『桃生町史』資料編、p.454-p.456。
- ^ 『桃生町史』資料編、p.456。
- ^ 筆者が当主より直接聞いた情報による。現在、北海道の親族宅にあるとの談。
参考文献
- 津山町史編さん委員会『津山町史』前編 宮城県本吉郡津山町、1999年。
- 津山町史編纂委員会『津山町史』資料編Ⅱ 宮城県本吉郡津山町、1993年。
- 仙台市博物館監修『仙台城下絵図<寛文4年/1664>』有限会社イーピー 風の時編集部、2017年。ISBN 978-4-9909324-1-1 C0325
- 仙台市博物館監修『仙台城下絵図<寛政元年頃/1789>』有限会社イーピー 風の時編集部、2021年。ISBN 978-4-910676-00-5 C0325
- 桃生町史編纂委員会『桃生町史』第一巻 資料編 宮城県桃生郡桃生町、1985年。
- 宮城県史編纂委員会編『宮城縣史』2(近世史)宮城県史刊行会、1966年。
- 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店、1994年。ISBN 4040020405
- 東北大学日本文化研究所『日本文化研究所研究報告別巻第四集』 「晴宗公采地下賜録」とその考察(豊田武、加藤優)、1966年3月。
- 本多俊彦『東京大学経済学部資料室年報』3 「仙台藩の知行宛行状について」、2013
- 布施定安のページへのリンク