市民急増に対応し運行拡充
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:33 UTC 版)
「横浜市営バス」の記事における「市民急増に対応し運行拡充」の解説
1946年(昭和21年)5月、横浜市電気局は横浜市交通局に改称され、名実共に市電中心の運営から市営交通を総括する事業体として再出発していくこととなる。 戦後復興が進むにつれて横浜市の人口は急激に増加し、終戦時の1945年(昭和20年)には62万人であったが、1951年(昭和26年)には100万人を突破した。市域は急速に都市化が始まり、都市計画も十分になされないまま市街地が虫食い的に拡大していった。市営バスはこうした状況下で交通需要の増大に対応するべく順調に路線を復興・新設し、1949年(昭和24年)には6・7・16・18系統、1950年(昭和25年)には20・21・23・24系統、1951年(昭和26年)には25・29・31系統、1952年(昭和27年)には32・33・34・36系統、1953年(昭和28年)には41・42・43系統などが開設されている。終戦直前には営業路線長15kmであったのが、1952年(昭和27年)には215kmにまで増加した。
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