巨人4年目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:45 UTC 版)
1996年は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。 その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。これは当時としては最年少記録であった。 リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてで敬遠されてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、(高校時代の)五打席連続敬遠の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった。 それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。 最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を残した。 この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった。なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に松田宣浩がされるまでなかったという。 契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。
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