居合道場の再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 22:57 UTC 版)
明治維新以後、廃刀令の煽りを受け剣道も居合も衰退し、また特に長谷川英信流居合は江戸時代藩外不出の「御留流(おとめりゅう)」で、町中に道場も無く、藩校の一部で伝えられたのみで、これを習った者が元々限られたのに加えて、廃藩置県後は藩の庇護も解かれ、存続の危機にあった。長谷川英信流の宗家・谷村家の親族であった板垣退助伯爵は、1893年(明治26年)、帰高の際に高知市材木町にあった「武学館」に招かれた際、長谷川英信流居合術と松嶋流棒術の由来と功績を述べ、これらの武術を後世に継承させるためには、適切な師範と道場が必要であるとその保護に関する弁舌を行い、適任者を衆に議した。詮議の結果、居合は無双直伝英信流第15代・谷村亀之丞自雄のもとで居合術を学んだ五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が最も堪能であるとの意見を得、板垣は両氏に指南の旨を直接相談に赴いた。両氏より快諾の旨を得た板垣は、さらに高知の素封家・竹村与右衛門の援助を受けその敷地の一角に道場を建設させ、これらの振興につとめた。五藤正亮は名実ともに居合術の普及に努め子弟を育成。その後、正亮の居合の修養深きを知った高知県立第一中学校(のち「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)校長・渋谷寬は「居合術が身心鍛錬に特効がある」として正亮を学校に招聘し生徒たちに指導させた。 1898年(明治31年)歿。享年64歳。
※この「居合道場の再興」の解説は、「五藤正亮」の解説の一部です。
「居合道場の再興」を含む「五藤正亮」の記事については、「五藤正亮」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から居合道場の再興を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から居合道場の再興を検索
- 居合道場の再興のページへのリンク