小松製作所の嘱託になったいきさつ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 15:06 UTC 版)
「長島乙吉」の記事における「小松製作所の嘱託になったいきさつ」の解説
終戦後間もなく小松製作所の社長になった河合良成は、これからの日本には原子力が必要になると確信し、大胆にも自分で原子力事業を起業しようと考えた。そこで、親友でありウランの専門家である飯盛に協力を要請した。河合の性格を熟知していた飯盛はこの途方もない話に驚かなかった。飯盛は終戦時にGHQにより放射化学の研究を禁じられたので、放射化学を放棄するつもりになっていたが、河合の熱意に押され再びウラン鉱石を探すことになった。そのため再び長島の助けが必要になった。飯盛はすでに理研を定年退職していたので、二人とも小松製作所の嘱託になって仕事をすることになった(1955年)。今度は、戦前未調査だった地域の河川の砂を調べた。その結果、新潟県の三面川、長野県の高瀬川の河床砂に微量の放射性鉱物が含まれていることがわかったが、原料とするほどの価値はまったく無かった。そのうち、原子力事業は国が推進することに決まったので、河合は原子力の事業化をあきらめ、長島と飯盛はウラン鉱探しから手を引くことになった。なお、国で原子力事業の推進を提唱したのは当時の科学技術庁長官の正力松太郎で、正力は奇しくも第四高等学校 (旧制)で河合・飯盛と同期であった。 詳細は「日本の原子力政策」を参照
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