小團次襲名から江戸下り
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「市川小團次 (4代目)」の記事における「小團次襲名から江戸下り」の解説
1843年(天保14年)、おりからの天保の改革のあおりで江戸所払いとなった師匠の幡谷重蔵(七代目市川團十郎)が来坂、その庇護を受け、1844年(弘化元年)春頃、大坂角の芝居で四代目市川小團次を襲名する。『けいせい石川染』の奴矢田平の立ちまわりが大好評となり、このとき共演した五代目市川團蔵からも賞賛を受ける。こうして人気と実力をつけた小團次は、満を持して1847年(弘化4年)江戸に下り、大坂じこみのケレンや舞踊で人気を集める。 1851年(嘉永4年)正月、『石川五右衛門』の葛篭抜けや宙乗り。8月の『東山櫻荘子(佐倉義民伝)』の佐倉宗吾。八代目市川團十郎と組んだ1853年(嘉永6年3月)の『与話情浮名横櫛』(切られ与三)での観音久次など、次々と当たり役を出していった。 小柄で口跡も悪く、「鬼瓦」と揶揄されるほど風采の上がらない容貌だったが、天性の運動神経と負けん気、そして研究熱心さなどを武器に、努力と工夫を怠らず着々と実績を積み、八代目團十郎の死後、師匠筋の市川宗家の後見人として、九代目市川團十郎が初代河原崎権十郎だった頃の指南役をつとめるなど、名実とも江戸を代表する役者となった。
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