対雁川下時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 04:33 UTC 版)
現在石狩川の対岸にある対雁地区とは、かつて地続きであり、対雁川下と呼ばれていた。当時の対雁川下は馬蹄形に大きく湾曲した石狩川に囲まれており、増水の折には直進しようとする水流をまともに受けるという、水害常襲の地であった。 毎年起こる氾濫のため畑作に適した土地とは言えなかったが、土質はよかった。そこで盛んになったのが、杞柳の栽培である。杞柳はもともと但馬国(兵庫県)の特産品で、行李の材料として用いられた。植えてから3年目の春に刈り取り、皮をむいた「白芽」の状態で行李製造業者に卸したり、あるいは麻糸で編んだ「生地編」まで仕上げてから業者に送るのである。 対雁川下では当初、但馬出身の田原鶴蔵が杞柳を栽培していた。1913年(大正2年)ころ、田中広作とその兄の政一郎が田原から細工の手ほどきを受けたのを契機に、杞柳栽培が広まっていった。1925年(大正14年)、対雁副業組合が設立される。組合の中心人物となったのは田中広作で、北海道庁から副業嘱託講師に委嘱されるほどの腕前を誇った。行李の製造は6か月程度で習熟できるため副業に適していた一方、花篭や椅子のような細工物の製作にはより高い技術が必要となるのだが、対雁副業組合の細工物は1926年(大正15年)の全国副業展覧会で二等賞を射止めるに至った。以降、組合は杞柳細工の本場である但馬に組合員を派遣して、技術の研鑽を図った。 しかし1932年(昭和7年)、大水害により地区の杞柳の大半が枯れてしまうのだった。
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