富山新港建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 13:51 UTC 版)
富山県は県の商工業発展のため当地に新たに大きな港を計画、1961年(昭和36年)4月に起工し、潟湖を掘削・浚渫し、その際に発生した土砂で背後の工業予定地を整備した。さらに港口を大きく広げ、弁天島もなくして新港を造成、それにより道路、鉄道も分断したかたちで1968年(昭和43年)4月に富山新港として開港(同年9月に正式名称が『伏木富山港(新湊地区)』と決定)。開港工事に伴い陸続きだった新湊市は東西に大きく分断、自転車やバイクまでが乗ることのできる富山県営渡船が越ノ潟と堀岡の新港東口駅の間に運航され、自動車は放生津潟を南にめぐる『迂回道路』を通らなければならなかった。周囲は工業用地化し現在は昔の面影をほとんど残しておらず、わずかな名残が残る程度である。少童社は富山新港沿いの片口地区に遷座された後、社殿としてアルミニウム製、高さ15メートルの「新湊弁財天」像が建立された。 2012年9月には新湊大橋が開通し、東西分断が解消され、海王丸パークとともに富山県内の一大観光地となっている。 放生津の名称は放生津八幡宮や当社祭礼で、国の重要無形民俗文化財に指定されている放生津曳山祭などが残っている。
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