家族の末路・シャー・シュジャーの死に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:08 UTC 版)
「シャー・シュジャー (ムガル皇子)」の記事における「家族の末路・シャー・シュジャーの死に関して」の解説
シャー・シュジャーの家族がどうなったのかを見ると、彼らもまた同様に憂き目にあうこととなっている。 シャー・シュジャーの家族は捕えられたのちに首都ミョーハウンに送還され、1663年に3人の息子ザイヌッディーン・ムハンマド、ブランド・アフタール、ザイヌル・アービディーンは処刑された。妃や娘らは王の慰み者にされ、やがて悲惨な死を遂げた。 だが、ベルニエの伝えるところでは、シャー・シュジャーの家族が捕えられるところまでは一致しているが、そこから情報が錯綜している。その場に居合わせた人たちからはシャー・シュジャーの死体を見たという話も聞いたが、彼らは本人かどうかわからなかったのだという。 ベルニエは、シャー・シュジャーはジャングルから逃げて生き延びたことは確実だとしている。その上で、マスリパタムにたどり着き、ゴールコンダ王とビジャープル王に合流したとも、スーラトの沖合を外洋船で通過したともいう(その船にはペグーかシャムの王から与えられた赤い旗が書かが得られていたとも)。さらには、シーラーズで見かけただの、カンダハールからカーブルへ入ろうとしたとも、ペルシアに入った伝え聞いたとしている。ベルニエはまた、アウラングゼーブがある日冗談で「シュジャーはとうとうハッジ(メッカに向かう巡礼者)になった」と言った、という話を聞いている。 とはいえ、ベルニエはシャー・シュジャーに仕えていた宦官とゴールコンダ王国の砲兵隊総司令官から、シャー・シュジャーはこの世にいないとも伝え聞いたとしており、またデリーにいたときにあったイスファハーンから来たばかりの商人からその方面の情報を何も持っていなかったとしている。ベルニエは、彼はあの場で殺されたのではないとしても、盗賊の手かあるいはトラやゾウに襲われて死んだと考えるのが妥当としている。
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