安井算知 (俊哲)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 安井算知 (俊哲)の意味・解説 

安井算知 (俊哲)

(安井俊哲 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/27 17:37 UTC 版)

安井 算知俊哲)(やすい さんち(しゅんてつ)、文化7年(1810年) - 安政5年7月4日1858年8月12日))は、江戸時代囲碁棋士で、家元安井家九世安井算知、七段上手。八世安井知得仙知の長男で、二世安井算知の名を継ぐ。天保四傑と呼ばれた一人で、無双の力碁とされる。息子は十世安井算英

経歴

江戸両国薬研堀の安井家屋敷で生まれる。幼名は金之助、後に俊哲と名乗る。少年時代には、安井家が本所相生町の本因坊家屋敷に近かったため、姉の鉚(のちに二段)とともに腕を磨きに通った。文政8年(1825年)に16歳二段で跡目になり、御城碁に初出仕し服部因淑に三子で中押勝。若い頃は打つ買う飲むの道楽者だったが、父仙知は一言の小言も言わず、見苦しい負けをしたときだけ叱ったと言われる(『坐隠談叢』)。天保4年(1833年)六段昇段。天保8年(1837年)七段昇段するが、手合割は六段のままという名目的な昇段だった。天保9年(1838年)に父仙知が没し、家督を相続して九世安井算知となる。

御城碁では、七世安井仙知の喪に服した天保8年を除き、安政4年(1857年)まで皆勤し42局を勤め、これは本因坊烈元に次ぐ。安政5年(1858年)に弟子の海老沢健造(後の巌崎健造)とともに関西を遊歴し、7月に帰路の沼津で没する。子の算英が12歳で安井家を継いだ。

伊藤松和、安井算知、太田雄蔵阪口仙得の四人で「天保四傑」とよばれた。

戦績

井上幻庵因碩とは先相先まで十数局を遺し、算知先では打ち分け。本因坊丈和とは、文政12年(1829年)御城碁で二子で敗れ、父に叱責されたと言う。天保4年の先二の先番では、4日をかけて1目勝ち。

10歳年少の本因坊秀和とは親しい間柄で、130局あまりが遺されている。天保7年(1836年)に秀和先が初手合。その後秀和の成長により、天保8年には秀和先相先だったが、翌年1月に互先、6月には算知先相先、10年には先二にまで打込まれ、14年には互先に戻す。その後は算知先相先と先を往復した。ただし御城碁での対秀和戦では、黒番で5勝、白番で1勝3敗としている。両者間の対局では、秀和の打ち、算知の三々天元打ちなども試みられている。

天保10年(1839年)の伊藤松和(勝)との対局は、405手の長手順で知られる。

御城碁成績
  • 1825年(文政8年)三子中押勝 服部因淑
  • 1826年(文政9年)二子9目勝 林元美
  • 1827年(文政10年)先番6目勝 林柏悦
  • 1828年(文政11年)二子中押勝 服部因淑
  • 1829年(文政12年)二子1目負 本因坊丈和
  • 1830年(天保元年)二子中押勝 井上幻庵因碩
  • 1831年(天保2年)先番ジゴ 服部因淑
  • 1832年(天保3年)白番11目負 服部雄節
  • 1833年(天保4年)白番中押勝 林柏栄門入
  • 1834年(天保5年)先番中押勝 林元美
  • 1835年(天保6年)先番ジゴ 井上幻庵因碩
  • 1836年(天保7年)先番1目勝 服部雄節
  • 1838年(天保9年)白番5目勝 林柏栄
  • 1839年(天保10年)先番3目負 本因坊丈策
  • 1840年(天保11年)白番中押負 林柏栄
  • 1841年(天保12年)先番3目勝 本因坊秀和
  • 同年 白番1目勝 阪口仙得
  • 1842年(天保13年)先番1目勝 井上幻庵因碩
  • 同年 先番中押勝 本因坊丈策
  • 1843年(天保14年)白番4目負 本因坊秀和
  • 1844年(弘化元年)先番1目勝 本因坊秀和
  • 同年 先番4目勝 阪口仙得
  • 1845年(弘化2年)先番6目負 林柏栄
  • 同年 白番中押勝 本因坊秀和
  • 1846年(弘化3年)白番3目負 井上秀徹
  • 同年 白番7目勝 本因坊丈策
  • 1847年(弘化4年)先番7目勝 本因坊秀和
  • 1848年(嘉永元年)白番7目負 本因坊秀和
  • 同年 白番2目勝 井上節山因碩
  • 1848年(嘉永2年)白番11目負 本因坊秀策
  • 同年 白番3目負 伊藤松和
  • 1849年(嘉永3年)先番9目勝 伊藤松和
  • 同年 先番5目勝 本因坊秀和
  • 1850年(嘉永4年)先番3目勝 本因坊秀和
  • 同年 白番中押負 本因坊秀策
  • 1851年(嘉永5年)先番中押勝 林柏悦門入
  • 同年 白番7目負 本因坊秀和
  • 1851年(嘉永6年)白番5目負 井上松本因碩
  • 同年 先番1目負 本因坊秀策
  • 1852年(安政元年)白番4目負 伊藤松和
  • 1854年(安政3年)白番10目負 林有美
  • 1855年(安政4年)白番中押負 本因坊秀策

門下、その他

算知門下では、巌崎健造、鬼塚源治、奈良林倉吉、中村正平が当時安井門四天王と呼ばれ、他に田原恒三郎、中松松齋、石原常三郎、島村栄太郎らの五段がいた。健造は明治期にも活躍し、方円社3代目社長も務める。健造が算英十歳頃に碁を見てやっていて、あまりに稚拙な手を打つので手を上げたことがあり、算英は泣いて母親に訴えたが、算知は健造の話を聞いて、今後も遠慮なく殴ってくれ、算英の兄とも師ともなってくれと褒めたと言う。

安井家の一世安井算哲、二世安井算知、三世安井知哲の墓所は京都寂光寺にあったが、宝永5年(1708年)に火災で失われた。算知はこれを、嘉永5年(1852年)に江戸深川浄心寺に改葬した。

著作

  • 『佳致精局』青黎閣 嘉永元年(1848年) (算知の打碁集)
  • 『囲碁捷径』青黎閣 嘉永元年(1848年) (置碁、互先の定石集)

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「安井算知 (俊哲)」の関連用語

安井算知 (俊哲)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



安井算知 (俊哲)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの安井算知 (俊哲) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS