安井家の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 21:48 UTC 版)
文政9年(1826年)、知得は実子の俊哲を安井家跡目とする。またこの時期に安井家の弟子として、太田雄蔵、阪口仙得、鈴木知清、片山知的、石原是山、桜井知達、佐藤源次郎など多くを育成し、安井家は本因坊家に匹敵する興隆となった。俊哲、雄蔵、仙得は、伊藤松和と並んで天保四傑と呼ばれる。娘の鉚も二段まで進み、後に土佐藩士宮井某に嫁いだとされる。 文政11年(1828年)に本因坊丈和が名人碁所願を提出したとき、仙知は尚早と主張し、丈和との争碁の許可を寺社奉行から得るが、仙知の病気のためや、一説では丈和が避けたとも言われ、期日が決まらず、天保2年(1831年)に丈和は名人碁所に就位した。 天保9年(1838年)に没し、俊哲が九世安井算知となる。現代でも島村俊廣、依田紀基ら、知得に私淑する棋士は多い。
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