孟獲の敗退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:05 UTC 版)
諸葛亮は、現地の者が孟獲に信服していることを聞き、生け捕りにしようと考えた。5月、諸葛亮の本隊は、瀘水を渡河し、孟獲と戦い、孟獲を捕虜とすることに成功した。伝説によれば、諸葛亮は、孟獲を帯同して蜀漢の陣営を見せ、蜀漢の軍についてどう思うか尋ねたところ、孟獲は、「私は、今まで、蜀漢の軍の実情を知らなかったため、戦いに負けたのである。今回、陣営を見て、状況がわかったため、次は必ず勝利する。」と述べたとされる。 諸葛亮は、北伐を考えていたため、背後にある南中の反乱が重要な問題であることを理解していた。そのため、馬謖が提案した「心を攻めるのが上策、城を攻めるのが下策。心で戦うのが上策、兵で戦うのが下策。」との提案を採用し、孟獲を説得したのである。諸葛亮は、孟獲の発言を聞いて、一笑し、釈放したのであった。漢晋春秋(三国志の裴松之注が引用し、資治通鑑にも採用されている。)によれば、諸葛亮は、7度孟獲を捕獲し、7度孟獲を釈放したとされる。孟獲及びその他の異民族は反省し、再び離反することはなかったとされる。孟獲曰く、「諸葛公には神通力があり、南人が再び反乱を起こすことはありません。」と。諸葛亮は、滇池に移り、南中の平定に成功した。12月には、成都に帰還した。
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