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奥平俊蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 14:59 UTC 版)

奥平 俊蔵
生誕 1875年12月25日
日本 東京府
死没 (1953-03-04) 1953年3月4日(77歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896年 - 1924年
最終階級 陸軍中将
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奥平 俊蔵(奥平 俊藏、おくだいら しゅんぞう、1875年明治8年)12月25日 - 1953年昭和28年)3月4日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功五級[2]

経歴・人物

東京府人・奧平定盛の四男として生まれ、1915年大正4年)甥の石之助方より分れて一家を創立する[2]

1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業[3][4]。のち1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業[3][4]

参謀本部部員、留守第18師団参謀長1915年(大正4年)4月に本郷連隊区司令官、1916年(大正5年)4月に陸軍歩兵大佐、同年8月に陸軍省軍務局歩兵課長、1919年(大正8年)4月に第1師団司令部附、同年12月に航空第4大隊長を経て、1920年(大正9年)8月に陸軍少将・中支那派遣隊司令官に任官[1][2][3]

その後、1922年(大正11年)8月に歩兵第2旅団長、1924年(大正13年)2月に第5師団司令部附を経て、同年12月15日に陸軍中将に昇進と同時に待命、同月20日に予備役に編入した[3][4]

日露戦争および日独戦争に出征した[2]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

位階
勲章

著作

  • 述『国際間ノ平和ハ果シテ永続性アリヤ』豊道会、1926年。
  • 『政治及民心ノ指導原理タル国体』恢弘会、1937年。
  • 述『国体の根本血と魂』日本協会出版部、1940年。
  • 栗原宏編『不器用な自画像―陸軍中将奥平俊蔵自叙伝』柏書房、1983年。

親族

脚注

  1. ^ a b 『日本陸軍将官辞典』183頁。
  2. ^ a b c d e 『人事興信録』第8版、オ216頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』125頁。
  4. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』184頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」122頁。
  6. ^ 『官報』第182号「叙任及辞令」1913年3月11日。
  7. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
  8. ^ 『官報』第3723号「叙任及辞令」1925年1月22日
  9. ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1923年6月11日。
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  11. ^ 山口市の幕末維新の歴史|幕末山口諸人往来|、2019年5月6日閲覧。

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。


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