奇襲後の植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/19 06:48 UTC 版)
「ヘイヴァーヒル奇襲」の記事における「奇襲後の植民地」の解説
奇襲隊へのカナダへの帰路は困難なものだった。捕虜の1人、ジョセフ・バートレットによると、行李を置き去りにしたことで食糧が乏しくなり、ある日は食用に鷹をつかまえて、15人でそれを分け合った。その時のバートレットの取り分は頭の部分で、「4日ぶりに一番量の多い食事にありつけた」。バートレットはインディアンと共に、4年間捕虜の生活を送った。フランス兵の何人かは、食糧のない旅を敢えて選ぶよりは、マサチューセッツ当局に降伏する方を選んだ。 この奇襲に関するフランス側の証言は、かなり数字が誇張されており、数百人が殺され、奇襲後の小競り合いには、イギリス系住民が200人もいたなどとあった。この襲撃は、前回のディアフィールドの時よりも、フランス側の経費は高くついた。マサチューセッツの民兵が、以前に比べて奇襲への準備を整えていたためだった。また、フランス側は前回よりも高い割合で死傷者を出していた。 ヘイヴァーヒル襲撃は、アン女王戦争中に、フランスがマサチューセッツに仕掛けたものの中では最後の大規模なものだった。辺境への小規模なものはいくつかあった。また、1712年に、当時マサチューセッツ領だったウエルズ(現在はメイン州)へ大軍勢が攻撃を仕掛けたこともあった。他に1710年のポートロワイヤルの戦いが行われ、これで勝利したイギリスは、1711年に海兵隊員を含めたケベック遠征を行ったが、セントローレンス川河口で輸送艦が座礁し、大勢の犠牲者を出したため、これは中断された。
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