太田静子との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
結婚後、太宰は比較的落ち着いた生活を送るようになった。当時執筆した作品の原稿の多くは妻、美知子の口述筆記、浄書を経たものであり、また太宰は発表前の作品の感想を求めたりもしていた。太宰の創作活動に妻、美知子は大きく貢献していた。ところが太宰は1941年以降、太田静子と関係を持つようになる。太田静子との仲は徐々に深まっていき、静子は激しく太宰のことを求めるようになっていく。 終戦前後の混乱の中、太宰と太田静子との連絡は一時期途絶えていたが、1945年末に太宰の疎開先に太田静子からの手紙が届いたことにより関係が復活した。太宰は太田静子の思いの重さに辟易しながらも関係は続き、1947年1月初めには、太田静子に構想中の小説の資料として日記の拝借を依頼する。太田静子は当時住んでいた下曽我村の大雄山荘で日記を見せたいと答え、結局2月後半に太宰は下曽我に太田静子を訪ね、数日間滞在の後、日記を借り受けた。この大雄山荘の滞在時、太田静子は太宰の子を身ごもった。太田静子の日記をもとに執筆されたのが「斜陽」であり、「斜陽」執筆中、太宰は心中することになる山崎富栄と出会うことになる。
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