太歳記事と『日本書紀』改刪説とは? わかりやすく解説

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太歳記事と『日本書紀』改刪説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 02:23 UTC 版)

大友皇子即位説」の記事における「太歳記事と『日本書紀』改刪説」の解説

西暦干支日本書紀改刪の前671 辛未 天智10 天智10 672 壬申 天武大友673 癸酉 天武2 天武元 674 甲戌 天武3 天武2 675 乙亥 天武4 天武3 676 丙子 天武5 天武4 677 丁丑 天武6 天武5 678 戊寅 天武7 天武6 679 己卯 天武8 天武7 680 庚辰 天武9 天武8 『書紀』は、壬申の乱の年を天武天皇元年とする一方で天武天皇即位天武天皇2年2月27日と記す。一見して矛盾するが、この書き方天智天皇持統天皇のときも同じで、それぞれ治世7年め、4年めに即位した記している。これは『書紀』の編年方針全体問題であるからここから直ち大友皇子即位には結びつかない。 『書紀』がもともと天武天皇元年壬申年の翌年においたのではないかという説は、この編纂方針ふまえた上で展開される。もし、最初の段階での『日本書紀』天武元年壬申年の翌年においていたのなら、それは即位年にあわせたからではなく壬申年が別の天皇の年だったからだと推定できるのである伴信友唱えた日本書紀改刪説は、和銅7年714年)に『日本書紀』はいったん完成しており、通常言われる養老4年720年)はそれを改刪改定したものとする。伴が改定証拠とみたのは、太歳記事天武天皇2年にあることである。『書紀』の太歳記事年の干支を記すもので、通常この年太歳○○である」とその天皇元年記事末尾に記す。しかし天武場合には元年末尾にはなく、2年末尾にある。これは、もともと壬申翌年天武天皇元年として太歳記事をおいた痕跡であり、後になって天武元年繰り上げたときに移し忘れたのだとする。 また、天智天皇紀と天武天皇紀の間で大海人皇子を「皇太子」「皇太弟」「東宮」とばらばらの用語で表現しており、大海人皇子皇位辞退して出家した場面が巻をへだてて2度出てくる点も、改定時の整理不十分だったためだと考える。 喜田貞吉は、改定されてもされなくても壬申年が元年変わりないという点を指摘してこの説を批判した元年太歳ルール従えば壬申年は天武天皇元年でなくとも弘文天皇元年なのだから、改定前の『書紀』の壬申年にも太歳記事があったはずである。消し忘れ1つ疎漏はまだしも、何もしなければいいところでわざわ太歳記事削ったのは誤りとして理解しがたいそのように考えると、元年太歳記事がないのは見落としのせいではなく、もともとそのように編集されていたのだとするほうが自然である。太歳記事読者便宜をはかるためのものであって干支即位の間に直接の関係はない。壬申年一年一巻をあてた異例編集にともなう変則考えられる

※この「太歳記事と『日本書紀』改刪説」の解説は、「大友皇子即位説」の解説の一部です。
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