太歳記事と『日本書紀』改刪説
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「大友皇子即位説」の記事における「太歳記事と『日本書紀』改刪説」の解説
西暦干支日本書紀改刪の前671 辛未 天智10 天智10 672 壬申 天武元 大友元 673 癸酉 天武2 天武元 674 甲戌 天武3 天武2 675 乙亥 天武4 天武3 676 丙子 天武5 天武4 677 丁丑 天武6 天武5 678 戊寅 天武7 天武6 679 己卯 天武8 天武7 680 庚辰 天武9 天武8 『書紀』は、壬申の乱の年を天武天皇元年とする一方で、天武天皇の即位を天武天皇2年2月27日と記す。一見して矛盾するが、この書き方は天智天皇、持統天皇のときも同じで、それぞれ治世の7年め、4年めに即位したと記している。これは『書紀』の編年方針全体の問題であるから、ここから直ちに大友皇子の即位には結びつかない。 『書紀』がもともと天武天皇元年を壬申年の翌年においたのではないかという説は、この編纂方針をふまえた上で展開される。もし、最初の段階での『日本書紀』が天武元年を壬申年の翌年においていたのなら、それは即位年にあわせたからではなく、壬申年が別の天皇の年だったからだと推定できるのである。 伴信友が唱えた日本書紀改刪説は、和銅7年(714年)に『日本書紀』はいったん完成しており、通常言われる養老4年(720年)はそれを改刪(改定)したものとする。伴が改定の証拠とみたのは、太歳記事が天武天皇2年にあることである。『書紀』の太歳記事は年の干支を記すもので、通常「この年の太歳は○○である」とその天皇の元年の記事の末尾に記す。しかし天武の場合には元年の末尾にはなく、2年の末尾にある。これは、もともと壬申の翌年を天武天皇元年として太歳記事をおいた痕跡であり、後になって天武元年を繰り上げたときに移し忘れたのだとする。 また、天智天皇紀と天武天皇紀の間で大海人皇子を「皇太子」「皇太弟」「東宮」とばらばらの用語で表現しており、大海人皇子が皇位を辞退して出家した場面が巻をへだてて2度出てくる点も、改定時の整理が不十分だったためだと考える。 喜田貞吉は、改定されてもされなくても壬申年が元年に変わりないという点を指摘してこの説を批判した。元年太歳のルールに従えば、壬申年は天武天皇の元年でなくとも弘文天皇の元年なのだから、改定前の『書紀』の壬申年にも太歳記事があったはずである。消し忘れ1つの疎漏はまだしも、何もしなければいいところでわざわざ太歳記事を削ったのは誤りとして理解しがたい。 そのように考えると、元年に太歳記事がないのは見落としのせいではなく、もともとそのように編集されていたのだとするほうが自然である。太歳記事は読者の便宜をはかるためのものであって、干支と即位の間に直接の関係はない。壬申年一年に一巻をあてた異例の編集にともなう変則と考えられる。
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