太平洋地域平和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 06:41 UTC 版)
中国共産党の大衆組織が、1952年10月に北京で国際会議「アジア太平洋地域平和会議」を開こうと全世界に呼びかけた。親中派として知られる大山郁夫(戦前の労農党委員長)、日本社会党の松本治一郎、アナキスト神近市子、マクロビオティックの創始者桜沢如一というメンバーが日本代表として訪中することが決まった。 この際、日本外務省はパスポート発給を拒み、松本は発給を要求する訴訟を起こした。外務省内で発給を要求する訪中団に対し、民間防衛組織が刃物で切りつける(9月19日)など、騒然たる状況であった。 日本政府の拒否の態度が覆らないと見るや、9月下旬、突如数人の日本人が北京で発見され、それらの人が松本らに代わる日本代表団として会議に臨むことになった。3代目翫右衛門が松本の代理として副団長として会議に参加し、大会議長にも名を連ねた。
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